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日々明々

東北の人・建物・文化などご紹介しております。。。ご当地物も紹介しておりますので是非、ご利用ください。。。


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古川祭 

古川祭(ふるかわまつり)は毎年4月19日、20日に岐阜県飛騨市古川町(旧・吉城郡古川町)で開催される気多若宮神社の例祭。
「神輿行列」と祭りの開始を告げるために打ち鳴らしたといわれる「起し太鼓」と絢爛豪華な9台の「屋台行列」からなる。
その起源は定かではないが、文献に最初に登場するのは屋台が1776年(安永5年)、起し太鼓が1831年(天保2年)である。
1980年(昭和55年)に古川祭の起し太鼓・屋台行事が国の重要無形民俗文化財に指定された。
日本三大裸祭りの一つに数えられる。
古川祭は古くは旧暦の8月6日(太陽暦の9月上、中旬頃)に開催されていたが、1886年8月に疫病が流行し例祭ができなくなったことから11月に変更された。
また1887年(明治20年)より春祭へと変更し4月16日、17日としたが、1889年(明治22年)より現在の日程となった。

○起し太鼓
起し太鼓と付け太鼓
文献の上では、1831年(天保2年)に初めて登場する。通常例祭が行われる際には祭の開始を告げるために氏子地内を太鼓を鳴らして回る風習は各地に見られるが(朝太鼓・目覚まし太鼓・一番太鼓)、この太鼓行事そのものが独立した行事となったことが特徴的である。4月20日の本楽祭の開始を告げるために、19日の深夜から太鼓を鳴らして氏子地内を巡ったことが始まりである。太鼓を乗せた櫓を「起し太鼓主事」と呼ばれる当番組が担ぐ。その太鼓の上の両側に男がまたがり、その両側より交互に太鼓を鳴らす。この太鼓をめがけて各台組の付け太鼓(現在は12本存在する)と呼ばれる小さな太鼓が突入する。この付け太鼓は幕末頃より加わったものといわれ、元来この地域の人々は「古川ヤンチャ」といわれる激しい気性が有名であり、これによって起し太鼓も非常に荒々しいものとなった。そのため幾度となく「付け太鼓禁止」が出されたが、1901年(明治34年)に解禁になり現在に至る。
明治時代の起し太鼓では櫓に鉤を引っ掛けて荒城川に引きずり落としたことがあるようである。
1884年(明治17年)の例祭では付け太鼓禁止に不満を持つ者たちが、「助太鼓」の名目で強行参加した。
1906年(明治39年)台組同士のケンカに端を発し警察分署への投石が始まり、窓ガラス49枚を割る。
1929年(昭和4年)日頃の警察の取締りに対する不満から、櫓ごと警察署に突入及び投石が行われた。

○屋台
御旅所前に整列する屋台
古川の屋台は1782年(天明2年)当地に来遊した近江の俳人、林篁の記した「飛騨美屋計」の一節で、9台の「屋台」が曳行した様子を知ることができ、当時すでに屋台文化が花開いていたものと推測されるが、各屋台組に残る記録・伝承からはその検証は難しい。屋台の形式や記録より近隣の高山祭の屋台の影響を受けたことは間違いなく、高山の中古屋台を譲り受けた記録もみられる。江戸時代には中段から舞台を出して、子供の歌舞伎・踊り、又はカラクリ人形を操るなど、全屋台に出し物があった。現在は白虎台の子供歌舞伎、青龍台・麒麟台のからくり人形が残る。現存する屋台9台は、岐阜県重要有形文化財に指定されている。

○神楽台(向町組)
1840年(天保11年)二之町中組より屋台を譲り受けたのが始まりである。これを黄鶴台と名づけ、その後朱雀台と改名したが、間もなく廃台とした。1883年(明治6年)高山一本杉白山神社より神楽台を譲受け神楽台組を創設、神楽囃子、獅子舞と共に奉仕するようになる。1889年(明治22年)屋台の破損甚だしく、高山の工匠、村山英縄、古川の住人、西野彦次郎、同彫師蜂屋理八等の手により改修する。1925年(大正14年)より解体修理し現在に至る。この屋台は大きな御所車2輪と後部に内輪との3輪である。上段中央に枠をたて金色大太鼓を吊る。枠上に二羽の大鳳凰後面中段より上段にかけて神旗二本を立てる。烏帽子、直垂姿の5人衆が神楽囃子を奏し、獅子舞を行うのはこの屋台だけである。4月19日の午前に気多若宮神社より御分霊を賜る。また屋台主事を担当せず、屋台曳揃え時には常に先頭を行く。

○三番叟(一之町上組)
創建年代不詳(1754年(宝暦3年)8月の説あり)であるが、1894年(明治27年)以後になると老朽化から曳行中止し、1904年(明治37年)8月の古川大火のとき、大部分を消失した。現存するのは、猩々緋大幕と女三番叟踊りのからくり人形だけである。人形の製作年代・作者とも不明であるが、13本の綱を5人で操作するこの人形踊りの複雑巧妙なことは当町一番である。現在は屋台の所有がないため、例祭においては台名旗(屋台の名称を記した旗)のみ曳行に参加する。また当台組は神楽台に続き2番目に曳揃えられることになっており屋台主事は行わない。

○鳳凰台(一之町中組)
初代の屋台は文化年間(1804年~1817年)にあったと伝えられているが、1891年(明治24年)に廃台し、現在のものは1917年(大正6年)に竣工したものである。この屋台はやや小ぶりであるが、金具や飾りがきらびやかであり、その名の通り屋根には大鳳凰を飾る。見送りは長谷川玉純の「鳳凰の絵」上部を二匹の自彫飛竜がくわえている。

○麒麟台(一之町下組)
一番初めの屋台は文久年間(1861年~1863年)につくられたが、1865年(慶応元年)2月25日の大火により焼失した。1881年(明治14年)に再びつくられたが、1924年(大正13年)の祭りを最後に廃棄した。現在の屋台は3代目にあたるが、設計製作は名工上谷彦九郎が担当し、1933年(昭和8年)に完成したものである。1978年(昭和53年)より古い屋台にあったからくり人形を復活させた。見送りは前田青邨の「風神雷神の図」、替見送りは玉舎春輝の「日本武尊東征図」である。

○三光台(二之町上組)
創建年代は不明であるが、古くは竜門台と称し、のち三光台と改めた。三光とは日・月・星の意味である。現在の屋台の設計は、当町の加藤理八が設計し飛騨の名工石田春皐によって、1862年(文久2年)に完成したものである。その後、度々の改修により精巧華麗なものとなった。 見送りは幸野楳嶺の「素盞男命八股大蛇退治の図」がある。

○金亀台(二之町中組)
創建は安永年間(1772年~1780年)<貞享年間(1684年~1687年)の説あり>で、1840年(天保11年)に向町組に譲る。現在のものは1841年(天保12年)6月に竣工したもので、1902年(明治35年)と1926年(大正15年)に修理した。見送りは「双龍図」といい古代つづれ織りで雲に双竜の織出し、下方は波に虎で本金を織り込んでいる。天保年間(1830年~1843年)に購入したもので唐渡品という。四方ベリはテレフチンという生地。裏は印度更紗でできている。替見送りは塩瀬生地で鈴木松年の「亀上浦島の図」である。

○龍笛台(二之町下組)
初代の屋台は安政年間(1854年~1859年)に作られたものである。現在の屋台は1884年(明治17年)に着手したもので、1886年(明治19年)に竣工したもので古川祭の屋台で一番大きな屋台である。上段天井には竜が描かれ、見送りの「雲竜の図」とともに、京都の垣内雲麟の作品である。体をくねらせ、両側から見送りを抱えるようにした昇り竜、降り竜の彫刻は名作である。

○清曜台(三之町上組)
1818年(文政元年)の創建で三之町全体の所有で、扇子台と称していたが抽選により下組と分離して三之町上組の所有となり、台名も清曜台と改めた。1893年(明治26年)祭礼当日曳行中に転倒し大破した。現在の屋台は1933年(昭和8年)から8年間をかけて、大工棟梁、上谷彦九郎によって新築をし、1941年(昭和16年)4月に竣工した。清曜の名にふさわしく清楚な姿を特徴としている。見送りは元公爵近衛文麿の「八紘一宇」である。替見送りは今尾景祥の「海浜老松の図」である。

○白虎台(三之町下組)
以前は三之町全体で扇子台を所有していたが、三之町上組との抽選で扇子台を失ったことから1842年(天保13年)5月に完成した。これは古い形式を維持したもので下段が高く、彫刻や金具や装身具が少ないものであった。屋台の老朽化に伴い1943年(昭和18年)に曳行を中止した。1981年(昭和56年)~1984年(昭和59年)に大改修を行い現在に至る。当時の古い形式を現在にとどめる。また見送りをもたず、創建当時に演じられていたという子供歌舞伎を復活させ「橋弁慶」を演じる。下段の猩々緋幕は南蛮渡来のものであり、外に類を見ない貴重なものである。また屋根に千木(ちぎ)ではなく御幣(ごへい)をつけているもの非常に特徴的な屋台である。上段に源義経の武者人形をのせる。台紋は源義経を尊崇していたことから源氏の家紋である笹竜胆(ささりんどう)である。

○青龍台(殿町組)
初代の屋台は創設年代は不明であるが、1817年(文化14年)以前に存在した記録が残る。その後、高山の山王氏子の黄鶴台を天保年間(1830年~1843年)に譲りうけ、1859年(安政6年)に玄翁台と改め、1861年(文久元年)に修築して、青龍台と名づけた。1926年(昭和元年)、1940年(昭和15年)に大改築して現在に至る。金森可重が増島城を築き、そのお膝元(殿町の名もこれに由来する)であったことから、台紋は金森氏の家紋であった梅鉢紋を掲げる。この屋台の車輪は外御所車であることが特徴である。(ちなみに高山春祭りにおける青龍台も高山城のお膝元であった青龍台が同様に梅鉢紋を掲げる)。からくり人形は福禄寿と童子の人形を操っている。見送りは、堂本印象の「昇天龍」である。

古川祭


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竿燈 

竿燈(かんとう)は、毎年8月3日 - 6日に秋田県秋田市で行われる祭り。
現在行われている祭りの正式名称は「秋田竿燈まつり」。
竿燈全体を稲穂に、連なる提灯を米俵に見立て、額・腰・肩などにのせ、豊作を祈る。
大若(おおわか)は提灯が46個、重さが約50kg。
重要無形民俗文化財に指定されており、青森のねぶた祭り、仙台の七夕まつりと並んで東北三大祭りの1つとされる。

ねぶり流し行事として行われている竿燈であるが、宝暦年間には原型があったといわれている。
五穀豊饒や除災、技芸上達を願って、旧暦7月7日にあわせて行われる七夕行事とともに、旧暦7月15日のお盆を迎え入れるために一連の行事として現在の形になったとも言われている。
大きさや重さは、次の通り。

大若:大人用で、重さ50kg、長さが12m、提灯の数が46個と非常に重い。
中若:重さ30kg、長さが9m、提灯の数が46個。
小若:小学生高学年 - 中高生用で重さ15kg、長さが7m、提灯の数が24個である。女性が両手で持つのは厳しい重さである。
幼若:小学生低学年以下用で、重さ5kg、長さが5m、提灯の数が24個。こちらは大人なら誰でも持てそうな重さ。

上記の若を、差し手が流しから平手、額、肩、腰などにのせてバランスをとり、上達してくると、扇子を仰ぎながら行っているのも見られる。特に腰は難度が高いとされる。
人によっては、顎にのせる人がいたり、町内によっては「鳩」を仕掛けたりとユニークなものもある。
提灯の絵柄は、「兎の餅つき」の図柄で「上米町一丁目」という様に絵とその町内の文字などで分かることが多い。
提灯には、雨によって貼った和紙が溶けないように、油が表面に塗られており、堤燈台も倒れたときのために、下部が両脇に空気を通すための穴がある。
今では、ほとんどが1町内に1つのスポンサーが入り竿燈が行われている。
開催場所は秋田県道26号秋田停車場線の竿燈大通り(かんとうおおどおり)といわれている「二丁目橋」交差点 - 「山王十字路」の区間。
ここに、約200近くの企業や学校などが参加し、終了時間近く(20:30(JST)ころ)には「ふれあい竿燈」のコーナーがあり体験できる。
期間外でも「ねぶり流し館」に行けば竿燈の歴史や体験もできる。
竿燈の明かりは電球ではなくすべて火をともしたロウソクであり、強風であおられたり演技失敗により倒れるなどした場合消えたり、ごく稀に燃え上がることがある。
観覧席付近は倒れても被害が出ないようロープを張るなどしているので安全は確保されている。
途中、秋田中央道路(秋田都市計画道路1・4・2号)の出口(旭北ランプ)もこの付近にあり、7月下旬-8月9日までの18:00 - 21:30頃閉鎖する予定。
以前は、秋田市役所前(現在の秋田中央警察署付近)や、広小路でも行われており、本数が多くなるにつれて、場所が変更になった経緯がある。
近年では、出張竿燈(臨時出竿)を開催しており、海外でも竿燈が上げられている風景が見られる。
鳥取県米子市で1973年から行われている「がいな祭り」のうちの「がいな万灯」(1989年から)は、「米子竿灯(のちに万灯(=まんとう))」と名乗っている。
これは、自衛隊米子駐屯地が秋田駐屯地の研修の一環として参加し、それをお土産として中心になって勝手に始めたものであるため、秋田の竿燈会が存在を知り抗議を行い、念書として「海外公演をしない」などの制約をした条件で、現在もなお続けられているものである。

2000年までは8月4日 - 7日の日程で開催されていたが、東北地方の他の祭と日程が重なりやすく、主催者にとっては観光客の減少、また観光客にとっては他の祭との移動に悩んでいた。
このため2001年から1日前倒しして、現在の日程となった。

平成20年度の高円宮殿下記念地域伝統芸能賞を、秋田市竿燈会が受賞した。
これに伴い、2008年10月12日(日)に、さいたまスーパーアリーナで実施された「日本のまつり・The MATSURIサミット」(咲いたまつりと同時開催)で妙技が行われた。
また、そのプレイベントとして、前日の2008年10月11日(土)には、浦和パルコ前で妙技が行われた。

近年では上記さいたまでの妙技を含め、東京近郊で妙技が披露されることがある。
毎年1月に東京ドームで行われる『ふるさと祭り東京 〜日本のまつり・故郷の味〜』に出演している。
他にも、2010年5月には浅草寺での妙技披露[3]、2006年6月には上野駅構内での妙技披露が行われた。

○竿燈妙技大会
戦後から、竿燈の技術を保存させるために毎年開催されている。
直径6mの円の中で、基本演技が忠実かつ安定しているかを競う。
メーンとされている、夜竿燈よりも差し手は気合が入っており、「保戸野鉄砲町竿燈会」は2度の4連覇をしており、いまだにこれを超える竿燈会は存在しない。
竿燈期間中の8月4日 - 8月6日の日中にエリアなかいちのにぎわい広場で行われる(2011年までは千秋公園中土橋にて開催、雨天時は秋田市立体育館)。
また妙技会個人戦では、室町竿燈会が最多5人の現役チャンピオンを輩出している。
平成21年度妙技大会では、下肴町竿燈会が二年連続大若団体規定演技優勝を果たした。
また大若団体自由演技でも優勝、二冠を達成している。
二冠達成は、平成9年度柳町竿燈会以来、大若団体規定演技二連覇は平成17・18年度優勝した新川向南町竿燈会以来である。

秋田竿燈まつり


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category: 秋田県

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東北の武将 

東北地方の戦国大名は鎌倉時代から代々土地を所有してきた由緒ある一族が、そのまま戦国大名化した者が多い。例外は若狭武田氏末裔を名乗る蠣崎氏で、津軽海峡沿いの中小豪族を統一した。
東北地方は関東の騒乱にほとんど巻き込まれることなく、当然中央の政争の影響もほとんど見られない。
戦乱といえば、15世紀前半から南部氏が仙北・鹿角に出兵(この鹿角争奪戦は永禄頃まで続く)、伊達氏の河北地方への侵食など領地争いが目立つ。
篠川公方や雫石御所も滅ぼされるなど、東北地方といえど、平穏無事ではなかった。
また、1522年伊達稙宗が奥州探題・大崎氏らを差し置いて陸奥守護職に就くなど下克上の芽は見られる。
1542年には伊達稙宗父子が家督の位置付けを巡って争いを起こして、血縁関係にある奥羽諸大名を巻き込んだ大乱(天文の乱)へ発展した。
この乱の過程で、伊達晴宗は国人一揆との契約関係を再確認することで、他の奥羽諸大名に先駆けて戦国大名としての体制を確立することに成功した。
これ以降、家督の相続を巡って相克のあった蘆名・田村・岩城・最上・南部などの諸家では、国人一揆と大名の契約関係の一元化により戦国大名化を果たした。
どの戦国大名も従来の大名に替わって室町幕府に「郡検断」「軍勢催促」「段銭徴収」等の諸権力を公認されることで各地域の中心勢力を形成する。
そして新しい中央政権たる豊臣秀吉の奥州仕置によって既得権益を追認された。

16世紀第4四半期の時点で、湊安東氏が秋田、三戸南部氏が糠部、奥州探題大崎氏が大崎、葛西氏が登米、羽州探題最上氏が最上・村山、伊達氏が信夫・伊達・置賜・刈田・柴田・宮城、蘆名氏が会津・耶麻・大沼・河沼・西蒲原・安積・岩瀬、二本松氏(畠山氏)が安達、田村氏が田村、石川氏・白河結城氏が白河、相馬氏が行方・宇多・標葉、岩城氏が楢葉・岩城・磐前・菊田・多賀において安堵を実行した発給文書が残っている。

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南部信直 

南部 信直(なんぶ のぶなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての陸奥国の武将戦国大名。
南部氏第26代当主で中興の祖といわれる。

○晴政後嗣とその後の確執
天文15年(1546年)3月1日、南部家の第22代当主・南部政康の次男・石川高信の庶長子として岩手郡一方井で生まれる。
永禄8年(1565年)、従兄である南部氏第24代当主・南部晴政に男子が無かったため、その長女の婿となり養嗣子として三戸城に迎えられた。
永禄9年(1566年)と永禄11年(1568年)、鹿角郡に侵入した安東愛季軍を撃退し武名を挙げる。
元亀元年(1570年)、晴政に実子・南部晴継が誕生すると次第に晴政から疎まれるようになる。
元亀2年(1571年)5月(天正9年(1581年)説もある)、南部一族の大浦為信に石川城を攻められて実父・石川高信が自害する(生き延びたとする説もある)。
これは石川家を弱体化させておきたい晴政が、石川家の津軽地方をかすめ取るよう大浦為信を密に唆したとの説もある。
なお南部氏側資料では、石川高信は天正9年(1581年)に病死し大浦為信に攻められていないが、南部氏側の作意を示す証拠が存在する。
天正4年(1576年)、正室(晴政の長女)が早世すると、本人も身の危険を感じていたのか晴政の養嗣子の座を辞退し田子城に引き籠もるが、刺客の脅威から逃れるため北信愛の剣吉城や根城南部氏当主八戸政栄の根城などに身を隠す。
晴政は信直への不信を抱き続け、南部家内は晴政ならび一族内の有力勢力・九戸氏の連衡と、信直を盟主とする南長義、北信愛の連合の間で対立していく。

○南部宗家家督相続
天正10年(1582年)、南部晴政が死んで晴継が第25代当主を継承するが同年、晴継は謎の暴漢集団によって暗殺される。
これには信直の暗殺説も囁かれている。
更に近年では信直によって内戦が引き起こされた結果、晴政親子が攻め滅ぼされたという説も浮上しているが、真偽のほどは不明である。
なお南部氏側資料では、晴政没後に騒動は発生しておらず、晴継もその後じきに疱瘡で死んだことになっている。
急遽南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われた。
南部晴継の後継者としては、九戸氏当主・九戸政実の弟でかつ晴政の二女が嫁いだ九戸実親を推す意見もあったが、北信愛が事前に有力勢力・根城南部氏の八戸政栄を調略し、結局は信愛や南長義から支持された信直が、南部氏第26代当主を継承することとなった。
このため九戸政実は遺恨を抱き南部家中は不穏な状態であった。
これら南部宗家と一族間の内部抗争、ならび南部領内に度々侵入する外敵へ対処せざるを得なかったため、その間も大浦為信に津軽地方は切り取られていくのだが、南部氏側は有効な討伐を行うことができなかった。

○豊臣政権下
天正14年(1586年)(天正16年(1588年)説もある)、高水寺斯波氏の当主・斯波詮直を滅ぼして勢力を拡大した。
天正15年(1587年)、北信愛を名代にして加賀国の前田利家に対し、豊臣政権に臣従する意思を示した。
天正18年(1590年)1月津軽へ兵を進める。大浦為信は密に上洛するため既に津軽を離れていたと思われるが、大浦側の抵抗が固くまた真冬でもあり南部軍は苦戦を強いられ、目的を果たせぬまま小田原参陣のため撤退した。
根城南部氏八戸政栄に三戸城代を委ね、政栄の子・八戸直栄を随伴し兵1000を率いて、同年4月豊臣秀吉の小田原征伐に参陣、そのまま従軍し奥州仕置の軍を進める秀吉から宇都宮において、7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、紫波郡、そして遠野保か?)についての覚書の朱印状を得る。
しかし大浦(津軽)為信に津軽地方を押領されたことの訴えは、秀吉が小田原途上の沼津にて、南部氏の小田原参陣よりも早い3月に、津軽為信と謁見し既に津軽氏へ所領安堵されており、却下された。
同年7月、秀吉の奥州遠征の際には浅野長政と共に先鋒を務めた。
奥羽仕置後に葛西・大崎一揆や和賀・稗貫一揆、天正19年(1591年)に九戸政実の乱が起きると、豊臣秀次を総大将とした秀吉の援軍を得てこれを鎮圧し、九戸政実ら謀反人を処刑した。
九戸氏討伐直後に信直は、討伐軍に加わっていた津軽為信を悪逆であると小田原参陣時に続いて言い募り、秀吉の奉行である浅野長政に実父・石川高信の敵討の許しを願い出る。
長政がこれを拒否すると、今度は蒲生氏郷を介して長政に敵討を願い出てきたので、長政は再び拒否するとともに不測の事態を避けるため、津軽為信に即刻領地へ帰るよう促したとされる。
秀吉の命で九戸城を蒲生氏郷が改修し、信直は三戸城から居城をここに移し福岡城と改名した。
また失領している津軽3ヶ郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地として和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増され、9ヶ郡10万石の大名と認められて、11月に嫡子・南部利直と共に上洛して秀吉に謝している。
文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵では、秀吉に従って1000余名を率いて肥前名護屋城に参陣したが、朝鮮に渡海せずに翌年に帰国を許された。

○最期
肥前国より帰国後は、盛岡に居城を定め、築城や諸城の破却に着手するなど、領内の基盤固めに専念した。
九戸の乱後の仕置によって、南部は伊達政宗と領地を隣接することとなり、盛岡への本城の移転は狡猾な野心家である政宗の侵略に対抗する為の防備であったという。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康に接近する。
同年、盛岡城の築城を開始するが、その完成を見ず、慶長4年(1599年)10月5日、福岡城(九戸城)で病死した。享年54。
法名は「常往院殿前光録大夫江山心公大居士」。
墓所は青森県三戸郡南部町の三光院。信直と後室(泉山古康娘)夫妻の墓が現存する。
晩年は中風を煩っており、秀吉への拝謁や朝鮮出兵の従軍の為に西方へ行くのも苦労していた。
死の直前、長女・千代(八戸直栄室)に向けて書かれた手紙では「大事ない、海藻が食べたくなったので、ワカメや昆布を確保して欲しい」と言っていたが、その直後の死であった。
後を長男の利直が継いだ。

南部信直


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津軽為信 

津軽 為信(つがる ためのぶ、旧字体:津輕爲信)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。陸奥弘前藩初代藩主。

津軽為信の出自には様々な説や伝承があり、南部氏支族で下久慈城主であった久慈氏の出とも、大浦守信の子とも言われる。
為信の経歴は津軽氏側に残される資料と、南部氏側の資料との間で記述に食い違いがあるため、はっきりしない点が少なくない。
為信が南部氏の一族であったという見方は、南部氏側の資料に存在する。
この見方を補強する資料が津軽家文書の中にもある。その文書は豊臣秀吉から送られたもので、宛名は「南部右京亮(なんぶうきょうのすけ)」とある。
この書状は為信に宛てられたものであると推定されていることから、大浦氏が三戸南部氏、八戸の根城南部氏等と同様に南部氏の一族であったことを示す証拠の一つと推定されている。
為信の実家と言われる久慈氏の出自は、南部氏始祖である南部光行が建久2年(1191年)地頭職として陸奥国糠部郡に入部して以降、その四男・七戸三郎朝清の庶子の家系が久慈に入部して久慈氏を称したとされ、室町期には南部嫡流の時政の子・信実が久慈修理助治政の養子となっている。
永禄10年(1567年)(永禄11年(1568年)説もある)、大浦為則の養子となり、大浦氏を継いで大浦城主になる。

○謀反
津軽氏側資料によると、元亀2年(1571年)5月(天正9年(1581年)説もある)自分の支城の堀越城から出撃、2キロメートルほど離れている石川城を突如攻略し、南部宗家である三戸南部家当主・晴政の叔父にあたる石川高信を自害に追い込んだ(生き延びたとする説もある)。
この出陣にあたり、22歳であった為信の妻・阿保良は兵卒達に自ら強飯を炊き出して手拭に包み、その一人一人に与えた。
兵たちは城主夫人からの心配りに感激し勇んで出撃したのだが、その兵には為信が近隣の賭場やら盛り場やらで雇って来たナラズ者83人が混じっていた。
このナラズ者たちには城の攻め手ではなく、石川城下の婦女子を襲わせ乱暴の限りを尽くさせたので、城下での妻子の凄惨な有様に石川城の城兵たちは合戦に集中できるはずがなかった。
南部晴政は、この頃には石川高信の実子でかつ晴政の長女の婿となり養嗣子であった石川信直と争っており、三戸南部家と石川家の内部抗争をいいことに為信は周りの豪族を次々に攻め始める。
晴政が対立する石川家を弱体化させるため石川家の津軽地方をかすめ取るよう、為信を密に唆したとの説もある。 天正2年(1574年)大光寺城の城代滝本重行を攻め、敗退するも、翌年(1575年)攻め落とす。
天正6年(1578年)7月、あらかじめ無類の徒輩を潜入させておき放火、撹乱で浪岡城を落城させ浪岡御所・北畠顕村(北畠親房の後裔)を自害させる。
それに対し南部氏側資料によると、石川高信が津軽に入ったのを元亀3年(1572年)として、天正9年(1581年)に(為信に攻め殺されておらず)病死としている。
そして為信は、高信から津軽郡代を継いだ二男(石川信直にとり弟)の石川政信に重臣として仕え、主君に取りいるために自分の実妹・久を政信の愛妾に差し出していた。
同役の浅瀬石隠岐が死ぬや政信に、もう一人の同役の大光寺光愛を讒言し出羽国に追放させた。
そして天正18年(1590年)政信と於久をともども宴席に招待し油断させて毒殺し、その居城だった浪岡城を急襲占拠して津軽地方を押領したとある。
しかし、これに関しては南部氏側の作意を示す証拠が存在する。民間記録『永禄日記』を初め、『南部晴政書状』や『南慶儀書状』も元亀2年の為信の石川城攻略を物語っている。
そして天正年間には既に津軽地方は為信が完全に掌握しており、石川政信が津軽に入れる状況ではなかった。
さらに南部氏側の主張が事実なら天正18年に挙兵した為信は、同年の小田原征伐での豊臣秀吉の元へ参陣していないことになる。
現在では南部家は豪族の連合体の粋を脱しておらず、「郡代」を置けるほど三戸南部氏の勢力や統制は強固なものではなかったと考えられている(そもそも主従関係ではなかった)。
ちなみに津軽氏側資料では、石川政信はその父・高信が死んだ翌元亀3年に為信に討たれているが毒殺との記載はなく、また津軽氏系譜に為信の妹は載っていない。

○独立
南部氏最盛期を築き「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほど領土を広げた南部晴政が、天正10年(1582年)没すると南部家内は後継者問題で分裂する。
本家当主を継いだ南部晴継が14歳で同年急死すると、南部氏側資料では騒動の発生はないことになっているが、石川家と南部一族内の有力勢力である九戸家が南部総領家の後継を争った。
為信は晴信の二女が嫁いだ九戸実親を支持したといわれるが、南部宗家家督は石川信直が相続してしまい、為信は本家筋に反旗を翻す勢力と見なされてしまう。
そこで為信には、本家と和睦するのとは逆に「どうせ討伐されるぐらいならばいっそのこと、本当に反旗を翻し南部家から独立してやろう」という考えが浮かんだといわれる。
本家当主となった南部信直は九戸氏へ津軽を侵蝕する為信の討伐を命じたが、晴政の晩年から南部宗家と連衡して対立してきた相手の石川(南部)信直が、その宗家当主へ弟・実親を差し置いて迎えられたことに大きな不満を抱いた九戸政実は動かなかった。
南部領内には外敵侵入が度々あり、また為信へ大規模な討伐軍を出している間に九戸氏が反乱するのを恐れて、南部信直は自ら討伐軍を率いることもできず、そのため津軽は容易に為信に切り取られていった。
天正13年(1585年)3月油川城を攻略し外ヶ浜一帯を制圧した後、さらに田舎館城を落す。
この頃、為信の正室・阿保良の弟2人(大浦為則の五男、六男)が川遊び中に溺死しているが、これは為信が後の跡目争いを避けるため義弟たちを暗殺させたと言われている。
同年4月には盟友である千徳政氏が浅瀬石城を守備して南部勢3,000を奮戦によって撃退する(宇杭野の合戦)が、為信はこれに援軍を送らなかったとされ、後々盟友関係に亀裂が入るきっかけとなる。
最上氏から得た情報により中央の豊臣政権に対する工作が必要と考え、天正13年初めて自ら上洛しようと鰺ヶ沢より海路出帆したが、暴風に巻き込まれ松前沖まで流されてしまう。
それでも上洛を果たそうと、天正14年(1586年)は矢立峠を越えるルートを試みるが比内の浅利氏の妨害で、天正15年(1587年)に兵2,000と共に南部領を突き切ろうとするが南部氏に妨げられて、天正16年(1588年)には秋田口から進んだが秋田氏に阻まれて、いずれも失敗し引き返している。
天正16年6月飯詰城の朝日行安に勝利して津軽一帯と 外ヶ浜ならび糠部郡の一部を手中に収めることに成功する。

○本領安堵
天正17年(1589年)秋田実季と和睦し、自らではなかったが家臣・八木橋備中を上洛させることができ、石田三成を介して豊臣秀吉に名馬と鷹を献上、津軽三郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)ならび合浦一円の所領を安堵された。
しかし後の奥州総検地ではこの所領高4万5,000石のうち3万石が津軽領地高で、残り1万5,000石は太閤蔵入地とされてしまう。
秀吉の小田原征伐の際には家臣18騎を連れて為信自身が、天正18年(1590年)3月駿河国三枚橋城へ参向し、小田原へ東下する秀吉に謁見している。
一方、南部家では前田利家を頼って、為信を惣無事令に違反する逆徒として喧伝し秀吉に訴え、一度は為信は征伐の対象にされかける。
だが早くから豊臣政権に恭順の意を示すなど工作し、天正18年4月小田原へ兵1,000を連れて参陣した南部信直に先駆け、その前月に小田原への途上の沼津で秀吉に謁見を果たしていた為信は、石田三成、羽柴秀次、織田信雄を介しての釈明が認められ独立した大名として認知されることに成功した。
これには、秀吉、秀次、織田信雄の三名とも鷹狩りを好んだことを聞きつけた為信が、津軽特産の鷹を贈って友誼を結んだことも本領安堵に繋がったと見られている。
以後も三成とは親密で、後年、関ヶ原の後に三成の次男・重成を保護したり、高台院の養女になっていた三成の三女・辰姫を息子の信枚の妻に迎えているのは、それに対する報恩という説もある。
また、大浦政信が近衛尚通の落胤だという伝承にちなみ、為信は早くから近衛家に接近して折々に金品や米などの贈物をしており、上洛した際に元関白近衛前久を訪れ「自分は前久公の祖父・尚通殿が奥州遊歴なされた際の落胤」と主張した。
近衛家に限らずその頃の公家は窮乏しており、関白職に就きたいが家柄の無い羽柴秀吉を猶子にして藤原姓を授けた近衛前久は、為信からの財政支援増額により為信も猶子にした。
このときから為信は本姓を藤原として、近衛家紋の牡丹に因む杏葉牡丹の使用を許され、姓を大浦から津軽に改めている。
これで形式上は、秀吉と為信は義兄弟となった。
その後は九戸政実の乱の討伐や文禄・慶長の役、伏見城普請などに功績を挙げた。
文禄3年(1594年)には大浦城から堀越城へ居城を移している。
慶長2年(1597年)為信は千徳政氏の子・政康が居る浅瀬石城を攻めて、かつて盟友関係にあった千徳一族を滅ぼした。

○関ヶ原の戦いと晩年
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは領国の周囲がすべて東軍という状況から三男・信枚と共に、東軍として参加した。
しかし、嫡男・信建は豊臣秀頼の小姓衆として大坂城にあり、西軍が壊滅すると三成の子・重成らを連れて帰国している。
これらを考えると、つまりは真田氏らと同様の、両軍生き残り策を狙ったとも考える人もいる。
そのためか戦後の行賞では上野大館2,000石の加増に留まった。
関ヶ原出陣中に家臣が反乱するのを恐れ、出陣前に一族である重臣・森岡信元を暗殺させるが、結局、合戦中に国許で反乱が起こって居城・堀越城を占拠される。
しかし西軍敗戦の報が伝わると、反乱方は戦意喪失の上で追討されている。
その後も家中騒動にて城が占拠されたりなどしたため、慶長8年(1603年)には岩木川と土淵川に挟まれた高岡(鷹岡)に新城を着工した(のちに弘前と改名し、城は弘前城となる)。
ただし、城の建設はあまり進まず、次代の信枚に引き継がれた。

慶長12年(1607年)、病に伏せた嫡男・信建を見舞うために上洛するが、到着前の10月に信建が病死し、自身も12月に京都で死去した。享年59。

為信の名代を務めるなど次代として確実視されていた嫡男・信建と、為信自身が相次いで死去したため、家督は三男・信枚(次男・信堅も既に死亡)が継いだものの、翌年、信建の嫡男・熊千代(大熊)が津軽建広ら信建派の家臣に推されて為信の正嫡を主張し、幕府に裁定を求めるお家騒動が勃発する(津軽騒動)。
幕府は信枚を正嫡として公認し、建広らは追放されお家騒動は収まった。

津軽為信


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最上義光 

最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。
最上氏第11代当主。出羽山形藩初代藩主。
伊達政宗の伯父にあたる。
関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。

天文15年(1546年)1月1日、第10代当主・最上義守と母・小野少将の娘との間に長男として生まれる。
幼名は白寿。
永禄3年(1560年)に元服し(永禄元年とも)、将軍・足利義輝より偏諱を賜り、源五郎義光と名乗った。
この年3月、寒河江城攻めにて初陣を飾っている。
しかしこの寒河江攻めは失敗に終わり、天文の乱において伊達氏からの独立性を回復して以降、推し進められてきた義守の領土拡張策はここに至って頓挫した。
永禄6年(1563年)、義守・義光父子は上洛して将軍・義輝に拝謁したが、その折に道中の安全と武運長久を祈って義光の母が刺繍した「文殊菩薩騎獅像」が近年再発見された。
永禄7年(1564年)には義光の妹・義姫(のちの保春院)が伊達輝宗に嫁ぎ、永禄10年(1567年)には長男・梵天丸(後の伊達政宗)を生むが、この婚姻は後々まで両家に大きな影響を与えることとなる。
元亀元年(1570年)頃、当主の義守と嫡男の義光父子の間で諍いが生じる。
5月に重臣・氏家定直の仲裁で父子が和解したが、8月には義光が家督を相続し(翌年とも)、翌元亀2年(1571年)に隠居の義守は出家して「栄林」と号した。
しかし天正2年(1574年)1月、両者の間が再び険悪になると、伊達氏からの独立傾向を強めていた義光を抑えるべく、伊達輝宗が岳父・義守救援の名目で最上領内に出兵する。
天童頼貞・白鳥長久・蔵増頼真・延沢満延らが輝宗に同調するなど四面楚歌の状況であったが、義光はこれらの攻勢を巧みに退けた。
9月10日には義光有利のうちに和議が成立し、最上氏は伊達氏からの完全な独立に成功した。
以後、義守・義光父子は和解し、再び争うことはなかった。
従来、義守が義光を廃嫡して次男の義時に後を継がせようとしたことが両者不和の原因とされてきたが、一級史料には全く義時の名が見られないため、今日ではこの説は義時の存在も含めて後世の創作と見なされている。

○出羽統一戦
家督相続を巡る一連の抗争が義光の勝利に終わった後も、最上氏分家の天童頼貞・東根頼景・上山満兼などは依然として義光に従わず、谷地城主・白鳥長久は、最上氏の家職である羽州探題を自称し、中央の実力者織田信長に出羽守への推任を願い出るなど、この時点ではまだ最上一郡の支配すらもおぼつかない状態であった。
そのため義光はまず家中法度の整備など足場固めに努め、しかる後に羽州探題・最上氏の勢威を回復させるための戦に乗り出した。
天正5年(1577年)、天童頼貞を盟主とする最上八楯と戦うも決着せず、和睦して頼貞の女を義光の側室に迎えた(天童御前)。
天正6年(1578年)、上山満兼が伊達輝宗の支援を受けて最上領に侵攻した。
義光は粘り強く防衛につとめ攻城戦から野戦に持ち込み、連合軍に手痛い打撃を与えた。
浮き足立つ輝宗の陣に、兄の危機を察した妹・義姫が駕籠で乗りつけ、両者を説得して和議を結ばせた(柏木山の戦い)。
天正8年(1580年)、義光は満兼の重臣・里見民部に内応すれば上山領を与えると誘いをかけ、これに乗った民部は満兼を殺害して義光に降り、上山城は義光の手に落ちた。
天正9年(1581年)から村山郡にも兵を進め、まずは天童氏の姻戚である小国城主・細川直元を万騎ヶ原の戦いで破り小国城を攻略。夏には小野寺氏重臣の鮭延城主・鮭延秀綱を調略する。
天正10年(1582年)、天童御前が三男・義親を産んで間もなく死亡したため、天童氏との和睦は白紙に戻った。
天正11年(1583年)、庄内の大宝寺義氏が最上攻めを計画したが、義光は事前に大宝寺家臣の東禅寺義長らを内応させており、義長は謀反を起こし逆に義氏を急襲した。
不意を突かれた義氏はなすすべも無く自刃した。
天正12年(1584年)、義光は白鳥長久の娘を嫡男・義康の室に迎えることで懐柔しようとしたが応じなかったため、病で危篤に陥ったと偽って長久を山形城に誘き出して自ら斬殺すると、ただちに谷地城を攻略した。
続いて寒河江城主・寒河江高基を攻めて自害させ、寒河江氏を滅した。
また、父・頼貞の跡を継いだ天童頼澄を攻めるも、最上八楯の一人・延沢満延の奮戦で最上軍は敗退する。
そこで義光は、満延の嫡男・又五郎に次女・松尾姫を嫁がせて、満延を引き抜くと、さらに東根頼景の家老・里見源右衛門を内応させて東根城を攻略する。
追い詰められた頼澄は国分盛重を頼って落ち延びた。
こうして天童氏を盟主とする最上八楯は崩壊し、義光は最上郡全域を支配下に収めた。
天正14年(1586年)、小野寺義道と有屋峠で戦う。緒戦は敗北するも、嫡男・義康と楯岡満茂らがよく反撃し、小野寺勢を撃退することに成功した。
天正15年(1587年)、大宝寺義氏の弟・義興が上杉景勝に接近を図っているという情報を知った義光は、素早く義興を攻撃して自刃させ、義興の養子・義勝(上杉家臣・本庄繁長の子)は越後に逃れた。
天正16年(1588年)2月、伊達政宗が1万の軍勢で義兄・大崎義隆を攻撃すると(大崎合戦)、義光は援軍5,000を派遣して義隆と共に伊達軍を破ったが、義光の妹・義姫(保春院)が両軍の間に自分の乗った駕籠を置かせて停戦を懇願したため、両者は和議を結んで撤退した。
8月、最上勢が動けないと判断した上杉家が家臣の本庄繁長、大宝寺義勝父子に庄内侵攻を命じ、十五里ヶ原の戦いで最上軍は大敗し、庄内地方は既に上杉氏の影響下にあった大宝寺氏に奪還された。
その後も上杉軍との戦いは続いたが、上杉家の重臣・直江兼続が石田三成経由で豊臣秀吉に接近、義光は以前から懇意であった徳川家康を通じて交渉にあたるも、秀吉の裁定により庄内地方は上杉領として公認された。

○豊臣政権下
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、宇都宮城にて夫人と秀吉に拝謁し本領24万石の安堵を受けた。
この時、義光は直前に没した父・義守の葬儀のため甥・政宗よりさらに遅参しているが、事前に家康と交渉していた成果もあり、咎めはなかった(小田原参陣前に義光が秋田実季に宛てた書状には「遅参を御朱印状で認められている」とある)。
また奥州仕置の際に発生した仙北一揆に乗じて小野寺領に出兵し、雄勝郡(上浦郡の一部)を削り取った。
なお小田原参陣前、妹・義姫を利用し政宗毒殺を目論んでいたとされることがあるが、この説が正しいかは諸説ある。
天正19年(1591年)、家康が九戸政実の乱の征伐に来た際に、次男・家親を諸大名に先駆けて徳川家の小姓として出仕させた。
この討伐に同行していた豊臣秀次が山形城に立ち寄った際、三女・駒姫の美貌に目をつけ、義光に側室に差し出すよう執拗に迫った(山形城に秀次は立ち寄らず、美貌の噂を聞いて迫ったという説もある)。
義光は断ったが、度重なる要求に屈し渋々娘を差し出すこととなった。
駒姫の成長を待って欲しいというのが、彼のせめてもの抵抗であった。
また、三男・義親を秀吉に仕えさせ、最上家の安泰をはかった。
天正20年(1592年)、朝鮮出兵に備えて肥前名護屋に滞陣するも、渡海はせずに済んだ。
また、この年より山形城の改築に取り組み始めた。
このころ、秀吉から羽柴の名字を与えられる。
文禄3年(1594年)、小野寺義道の忠臣・八柏道為に偽の書状を送る。
この計略にはまった義道は道為を成敗した。
その後、義道は義光相手に連敗し関ヶ原の戦い(慶長出羽合戦)では西軍に味方し、戦後改易された。
文禄4年(1595年)、秀次が謀叛の疑いで切腹させられた際(秀次事件)、娘の駒姫も連座して京三条河原で処刑された。15歳だった。
一説では、駒姫は実質的には秀次の側室でさえなかったという。
義光は必死で助命嘆願をしたが間に合わなかった。
義光夫妻の悲嘆は激しく、悲報を聞いた義光は数日間食事を摂ることもままならず、駒姫の生母・大崎氏はまもなく駒姫の後を追うように死亡している。
義光は秀吉の不興を買い、さらに政宗らと共に秀次への加担を疑われ謹慎処分を受ける。
この時、父の無事を息子・義康と家親が祈願していることからも、相当追い詰められた義光の立場が判る。
この処分は間もなく解けたが、義光の秀吉に対する憎悪は決定的なものとなった。
これ以降、慶長伏見地震の直後に秀吉ではなく家康の護衛に駆けつける、秀吉から茶に招かれた家康を自発的に護衛する等、徳川方への傾斜をますます強めていく。
慶長3年(1598年)、会津若松城主・蒲生秀行が家臣団の争いを押さえられずに転封されると(蒲生騒動)、会津には上杉景勝が奥羽諸大名の監視と関東の徳川家康牽制のために送り込まれた。
景勝とは庄内地方を巡り激しく争ってきた経緯があり、また上杉領が最上領によって会津と庄内・佐渡に分断されることになり、両者の衝突は避けられない状態となった。

○慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)
慶長5年(1600年)、家康は会津の景勝が軍備を増強していることを詰問する。
上杉家の重臣・直江兼続はこれに対して絶縁状ともいえる直江状で返答した。
これを受けた家康は同年6月、家康は会津征伐を開始した。
義光ら奥羽の諸将は東軍(徳川方)に味方し、米沢城攻撃のため最上領内に集結していった。
しかし、家康が会津征伐に赴く最中に、上杉氏と昵懇であった石田三成らが、反家康を名目にして上方で挙兵した。
家康はこれを知ると会津攻撃を中止し、義光、政宗、結城秀康らに景勝の牽制を命じ上方に引き返した。
これを受け、奥羽諸将は最上領内から引き上げ始め、中でも領内で一揆が発生した南部利直は、急ぎ引き返した。一方で政宗は孤立を警戒し上杉勢と講和を結ぶ。
義光は東軍につく決意を固めていたが、上杉領と接している家臣団はこれに反対し、義光も圧倒的不利を悟り、嫡子・義康を人質に出すことを条件に上杉勢と講和をはかった。
しかし、義光が東軍方の秋田実季と結び上杉領を攻める形跡を上杉側に知られたため講和は成立しなかった。
こうして最上家は完全に孤立した状態で、上杉家と対峙することとなった。
景勝は直江兼続に2万~2万4千余の軍勢を預け、最上領侵攻を開始した。
これに対抗する最上軍は7,000余(実際は小野寺義道を牽制するため庄内に出兵していたため、さらに少なく3,000余)でしかなかったが、上杉軍に対して義光は2,000挺もの鉄砲を駆使して抗戦した。
わずか350名の最上兵が駐屯する畑谷城の守将・江口光清は、兵力集中のため撤退するようにという義光の命令を無視し籠城した。
光清の器量を惜しんだ兼続は「降伏すれば名誉ある処置をとる」と勧告したが、光清はこれを拒否し抗戦した。
光清父子に率いられた守兵はよく持ちこたえ、上杉軍に1,000名に近い死傷者を出す損害を与えるも、衆寡敵せずまもなく全滅、畑谷城は陥落した。
続いて上杉軍は山形城の要である長谷堂城を攻撃するが、守将・志村光安率いる1,000名は上杉勢相手によく城を守り、鮭延秀綱らの奮戦もあって敵将・上泉泰綱を討ち取るなど多くの戦果を挙げた。
他にも上山城の里見民部、湯沢城の楯岡満茂ら最上勢の守将は善戦し、上杉勢・小野寺勢相手に城を守り抜いた(慶長出羽合戦)。
義光は嫡子・義康を派遣し、甥・政宗に援軍を要請した。
この頃政宗は、南部利直が最上領に援軍として向かったことを知ると、和賀忠親を煽動し一揆を起こさせ領土拡大を狙っていた(岩崎一揆)。
政宗は留守政景率いる約3,000の援軍を派遣したが、最上領で戦局を見守るに留まった。
一説によれば、政宗は重臣・片倉景綱から「山形城が落城するまで傍観し、疲弊した上杉勢を討ち、漁夫の利を得るべし」との献策を受けていたが、母・義姫が山形城内にいることを考慮しその策を却下したといわれている。
9月29日、上杉軍は関ヶ原の戦いの敗報を聞いて長谷堂城の包囲を解き、米沢城に退却した。
西軍敗戦の報を聞いた義光は、家臣・堀喜吽の制止に「大将が退却してどうやって敵を防ぐのか!」と反論し、先頭に立って上杉勢に追いすがった。
しかし、敵の一斉射撃に襲われ、堀喜吽は戦死し、義光自身も兜に被弾してしまう。
結局、最上軍はあと一歩のところで兼続を取り逃がしてしまった。
兼続の退き際の見事さには、敵である義光も賞賛を惜しまなかったという。
上杉軍が退却し、和平交渉へ向けて動いている間に最上勢は逃げ遅れた上杉勢を素早く追撃し、尾浦城主下秀久も降伏した。
こうして短期間のうちに上杉領の庄内地方・由利郡を奪取し、勢いに乗り小野寺氏の横手城攻略にまで成功した。
義光は上杉軍を撃退した功により、攻め取った庄内地方などを加えられ、上杉領である置賜郡を除く現在の山形県全土と由利郡(佐竹氏との領土交換により、当初所有していた雄勝郡・平鹿郡と引き換えた)計57万石を領し、出羽山形藩の初代藩主となった。
また、秋田実季が東軍を裏切ったとして訴え、常陸国に移封させた。

○晩年
江戸幕府成立以降、義光は領内の復興に尽力した。
自国の民に対して非常に寛容であり、義光存命中は一揆もほとんど起きなかったと云われる。
彼の統治下における善政はのちに「最上源五郎は役をばかけぬ」と謳われた。
居城である山形城を改築し、国内有数の広さの平城に拡張するとともに、城下町の整備に取りかかった。
まず、商人町を整備するため、山形城下においては地子銭・年貢を免除し、間口四間半から五間、奥行三十間を基本とした125坪から150坪の土地を分け与えるとともに、羽州街道・笹谷街道沿いに定期市を設けた。
さらに上杉から奪い返した日本海の要津・酒田港を最大限に活用すべく、庄内から山形へ通じる二本の街道を改修・拡幅するとともに、最上川の三難所を開削して水運の安全性を高め、領内の流通を盛んにして藩財政を大いに潤した。
また職人町は「御免町」として諸役が免除され、職人の中には家臣並の待遇を受けた者も居た。
当時の町数は31、町屋敷は 2,319軒で人口19,796人。
これに家臣団を加えると人口は3万人を超えた。
農政面では、治水工事を積極的に推進し、北楯利長・新関久正らに命じ北楯大堰・因幡堰などの疏水を開削して用水問題を解決し、庄内平野の開発を進め、農業生産力を大きく向上させた。
最上時代に築かれたこれらの疏水は、今なお庄内平野を潤し続けている。
大宝寺城を改築して鶴ヶ岡城と改称し、自らの隠居所とした。
義光と嫡男・義康の関係は当初良好であったが、家臣の讒言によっていつの間にか険悪なものとなっていた。
このことは、家親に家督を継がせたい幕府や、それを利用せんとした家臣の思惑も絡んでいたと言われている。
そんな中、慶長8年(1603年、1611年説もあり)、義康が何者か(重臣里見民部の家臣(義光の陪臣)原八右衛門か?)によって暗殺された。
この事件については未だ詳細は不明であり、義光の意向によるものとされることもあるが、家臣たちの単独犯行説もありはっきりしない。
家康は、義光が近侍させていた次男・家親をことのほか気に入っており、義康廃嫡は家康の意向を受けてとのことだとも言われている。
この事件は、義光の最上氏の安泰を計った思いが結果として裏目に出てしまったものといえる。
義康の死が最上家改易の遠因になったことは再三指摘されることではあるが、改易には家親の夭折、家臣の強訴といった要素が大きいとの意見もある。
城主たちの連合からなる最上家臣団が一枚岩ではなく、義光の力を以てしても統制がとれていなかった面も指摘されている。
義光が行った義康の供養は、駒姫のものと同じく大変手厚いものであった。
慶長16年(1611年)3月、従四位下、左近衛少将と出羽守に叙位・任官する。
その後、駿府城新築祝いのために駿府に上府したが、この頃から病がちになる。
慶長18年(1613年)、義光は病躯を引きずるようにして江戸に上り将軍・徳川秀忠に謁見、さらにその後駿府に赴き家康に謁して最上家の今後を託した。
明けて慶長19年(1614年)1月18日未刻、山形城に帰還してまもなく病死した。
享年69。葬儀当日、寒河江十兵衛、寒河江肥前守、長岡但馬守、山家河内守の4人の家臣が殉死した。
義光の墓所は山形市鉄砲町の光禅寺にある。

最上義光


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伊達政宗 

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名。
陸奥仙台藩の初代藩主。
伊達氏第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。
幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。

○幼年期
永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城[要出典]で生まれた。
幼名は梵天丸。
天正5年(1577年)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。
諱の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するべく藤次郎政宗と呼ぶことも多い。
伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきたが、政宗の元服に際しては、当時織田信長によって追放されていた足利義昭からの一字拝領を求めなかった。
天正7年(1579年)には仙道の戦国大名であった三春城主田村清顕の娘愛姫を正室とする。
天正9年(1581年)4月、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾る。

○家督相続から摺上原の戦いまで
天正12年(1584年)10月に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。
政宗は若年を理由に辞退を申し出たが、一門・重臣の勧めを受けて家督を譲り受けた。
小浜城主・大内定綱は二本松城主・二本松義継と手を組み、田村氏の支配から脱却しようとした。
天正13年(1585年)、政宗は大内領小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめの為として撫で斬りを行い、城中の者を皆殺しにしている。
大内定綱の没落を間近で見た義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより5ヶ村のみを二本松領として安堵されることになった。
ところが輝宗は、所領安堵の件などの礼に来ていた義継の見送りに出た所を拉致される。
当時鷹狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って義継を追跡し、鉄砲を放って輝宗もろとも一人も残さず殺害した。この事件については、政宗による父殺しの陰謀説や政宗は追いついたが既に輝宗死亡説などがあるが、詳しいことは分かっていない。
その後、初七日法要を済ますと、輝宗の弔い合戦と称して二本松城を包囲したが、11月17日に二本松城救援のため集結した佐竹氏率いる約3万の南奥州諸侯連合軍と安達郡人取橋で激突した。
数に劣る伊達軍はたちまち潰走し、政宗自身も矢玉を浴びるなど危機的状況に陥ったが、殿軍を務めた老臣・鬼庭左月斎の捨て身の防戦によって退却に成功し、翌日の佐竹軍の撤兵により辛うじて窮地を脱した(人取橋の戦い)。
関白・豊臣秀吉は関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。
天正16年(1588年)、北方の大崎氏家中の内紛に介入して兵10,000を侵攻させたが、黒川晴氏の離反と大崎方の頑強な抵抗に遭い敗北。
さらに政宗への反感を強めていた伯父・最上義光が大崎側に立って参戦し、伊達領各地を最上勢に攻め落とされたが、両軍の間に割って入った母・義姫の懇願により和議が成立し窮地を脱した(大崎合戦)。
一方、これに乗じて伊達領南部に蘆名氏・相馬氏が侵攻してきたが防衛し、愛姫の実家・田村氏領の確保に成功した(郡山合戦)。
天正17年(1589年)には会津の蘆名義広を磐梯山麓の摺上原で破った(摺上原の戦い)。
敗れた義広は黒川城を放棄して実家の佐竹家に逃れ、ここに戦国大名としての蘆名氏は滅亡した。
この後、政宗はさらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼした。
この頃になると惣無事令を遵守して奥州への介入に及び腰になっていた佐竹氏側から結城義親・石川昭光・岩城常隆らが次々と伊達方に転じて政宗に服属した。
このとき政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。
これに加え上述の白河氏といった南陸奥の諸豪族や、また今の宮城県や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった。

○小田原合戦と豊臣政権下
この頃、中央では豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承していた。
伊達家にも秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が幾度か届けられており、政宗はこれを黙殺していた。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたという。
秀吉の小田原攻囲(小田原征伐)中である1590年(天正18年)5月には、豊臣政権の五奉行筆頭の浅野長政から小田原参陣を催促され、政宗は5月9日に会津を出立すると米沢・小国を経て同盟国上杉景勝の所領である越後国・信濃国を経由して小田原に至った。
秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は会津領を没収したものの、伊達家の本領72万石(おおむね家督相続時の所領)を安堵した。
このとき遅参の詰問に来た前田利家らに千利休の茶の指導を受けたいと申し出、秀吉らを感嘆させたという。
この行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられる。
政宗が秀吉に服属してほどなく、北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏し、政宗の居城・黒川城へ入城した秀吉は奥州仕置を行った。ここに秀吉の日本統一が達成された。
江戸時代に仙台藩第4代藩主・伊達綱村(政宗の曾孫)が作らせた『伊達治家記録』には、小田原参陣前に兄の最上義光にそそのかされた義姫によって毒殺されそうになり、義姫を成敗する代わりに弟の伊達小次郎を斬殺したため義姫は実家に逃走したと書かれており、これが通説となっていた。
しかし実際には義姫はその後も伊達家にとどまっており、政宗の朝鮮出兵の頃から母子は親しく手紙のやりとりをしている。
義姫が実家の山形城へ突如出奔したのはこの4年後であることが一次史料からすでに明らかになっている。
この「毒殺未遂事件」の正体は、反政宗派一掃のための自作自演説もある。
翌天正19年(1591年)には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が一揆を煽動していたことが露見する。
これは氏郷が「政宗が書いた」とされる一揆勢宛の書状を入手した事に端を発する。
また、京都では政宗から京都に人質として差出した夫人は偽者であるとか、一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟(のぼり)や旗が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届いていた。
喚問された政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城72万石から玉造郡岩手沢城(城名を岩出山城に変えた)へ58万石に減転封された。
このころ、秀吉から羽柴の名字を与えられ、本拠の岩出山城が大崎氏旧領であったことから、政宗は「羽柴大崎侍従」と称した。
文禄2年(1593年)秀吉の文禄の役に従軍。
従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において巷間の噂となった。
3000人もしくは1500人の軍勢であったとの記録がある。
他の軍勢が通過する際、静かに見守っていた京都の住民も伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたという。
これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった、と伝えられる。
朝鮮半島では明との和平交渉中の日本軍による朝鮮南部沿岸の築城に際して、普請を免除されていたにも関わらず秀吉からの兵糧の支給を断って積極的に参加するなどして活躍した。
ちなみに政宗は、慶長の役には参加していない。
文禄2年以降浅野長政が取次として伊達政宗と豊臣政権のパイプとなっていたが、文禄5年8月14付けの書状で政宗は長政の態度に我慢がならずに絶縁状を送りつけて絶交を宣言した。
秀吉に早くから服属して五大老に選ばれた大名たちとは異なり、政宗は北条氏と同盟して秀吉と対立したため、五大老には選ばれなかった。
文禄4年(1595年)、秀吉から謀反の疑いをかけられた関白・豊臣秀次が切腹した。
秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となり、この時母方の従姉妹に当たる最上義光の娘・駒姫は、秀次の側室になる為に上京したばかりであったが、秀次の妻子らと共に処刑されてしまう。
政宗も秀吉から謀反への関与を疑われるも、最終的には無関係であるとされ連座の難を逃れた。
秀吉の死後、政宗と五大老・徳川家康は天下人であった秀吉の遺言を破り、慶長4年(1599年)、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させた。

○関ヶ原の戦いと最上陣
豊臣秀吉死後の慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐を行うと、これに従い7月25日には登坂勝乃が守る白石城を奪還した。
家康が畿内を離れた隙をついて五奉行の石田三成らが毛利輝元を総大将として家康に対して挙兵したため、小山まで北上していた家康は西へ向かうが、この翌月、家康は政宗に対して岩出山転封時に没収されこの時点では上杉領となっていた旧領6郡49万石の領土の自力回復を許す旨の書状(「百万石のお墨付き」仙台市博物館・蔵)を送っている。
これは政宗が南部利直領の和賀・稗貫・閉伊への侵攻許可を得るため、南部氏が西軍に通じているとしきりに家康に訴えていたことから、お墨付きを与えることで政宗が対上杉戦に集中するよう仕向けたものであった。
同年9月、関ヶ原の戦いが勃発すると、西軍の上杉家重臣直江兼続率いる軍が東軍の最上氏の居城山形城を攻撃する(長谷堂城の戦い)。
東軍に属した政宗は、最上氏からの救援要請を受けて叔父・伊達政景率いる3,000の兵を派遣し、9月25日には茂庭綱元が上杉領の刈田郡湯原城を攻略した。
関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わり、直江兼続もまた最上義光に敗れて米沢に逃げ帰ると、政宗は自ら兵を率いて伊達・信夫郡奪還のため国見峠を越えて南進し、10月6日に福島城主本庄繁長の軍勢と衝突する。
宮代表の野戦では威力偵察に出た大宝寺義勝(繁長の子)率いる上杉軍を破ったものの、つづく福島城包囲戦では繁長の堅い守りに阻まれて攻城に失敗、さらに上杉軍の別働隊に補給線を断たれたため、翌日には北目城へと撤退した(後世の軍記物に見えるいわゆる松川の戦いのモデル)。
この後、翌年春頃まで幾度か福島城攻略のために出兵したが、結局は緒戦の失敗を取り戻せず、旧領6郡のうち奪還出来たのは陸奥国刈田郡2万石のみであった。
加えて、政宗が南部領内で発生した和賀忠親による一揆を煽動し、白石宗直らに命じて忠親を支援するため南部領に4,000の兵を侵攻させていたことが発覚した(岩崎一揆)。
この一件は最終的には不問に付されたものの、政宗が希望した恩賞の追加はことごとく却下され、領地は60万石となった(後に近江国と常陸国に小領土の飛び地2万石の加増で62万石となる)。

○仙台開府と慶長遣欧使節
伊達政宗からローマ教皇に宛てられた書簡
慶長6年(1601年)には仙台城、仙台城下町の建設を始め、居城を移す。ここに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。
石高62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位である。
徳川幕府からは松平の名字を与えられ「松平陸奥守」を称した。
仙台城は山城で天然の地形を利用した防御であるものの、仙台の城下町は全面的な開発であるため、のべ100万人を動員した大工事となった。
藩内の統治には48ヶ所の館を置き家臣を配置した。
政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図し、慶長18年(1613年)、仙台領内において、エスパーニャ国王・フェリペ3世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造した。
政宗は家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを外交使節に任命し、家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。

○大坂の役
慶長19年(1614年)の大坂の役(冬の陣)では大和口方面軍として布陣した。
和議成立後、伊達軍は外堀埋め立て工事の任にあたる。
その年の12月、将軍秀忠より伊予宇和郡に領地を賜る。
翌年、慶長20年(1615年)の大坂の役(夏の陣)道明寺の戦いでは後藤基次らと戦った。
基次は伊達家家中・片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したといわれる。
道明寺口の要衝小松山に布陣をする後藤隊を壊滅させた大和方面軍は誉田村に兵を進めるが、ここで伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受けて後退を余儀なくされた。
これに対し先鋒大将の水野勝成は政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請するが、政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを理由にこれを悉く拒否し、最後は政宗自ら勝成の陣に赴き要請を断った。
このため信繁は悠々と大坂城に引き返し「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」(「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人として居ない」)と嘲笑したという。
なお、誉田村での戦闘中に政宗勢は水野家家中3人を味方討ちにし、水野家の馬を奪っているが、勝成は政宗の軍勢を待ち伏せにし兵を斬り殺して馬を奪い返した。
しかし、これに政宗が異議を唱えることはなかった。
一説によれば、翌5月7日の天王寺の戦いで政宗は船場口に進軍し明石全登隊と交戦していた水野勝成勢の神保相茂隊約300人を味方討ちにしたという(6日の道明寺の戦いで発生したとする説もある)。
神保隊は全滅し、相茂自身も討ち死にして遺臣が水野勝成らを通じて政宗に抗議するが、政宗は開き直り「神保隊が明石隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分した。伊達の軍法には敵味方の区別はない」と主張したとある(『薩藩旧記』巻六)。
この風聞は直後から様々な興味と憶測を生み、講談本(『難波戦記』)では後藤隊休息中の神保隊に有無を言わさずに銃撃を加えたとする説や、手柄を妬んでの味方討ちとする説も書かれている。
ただし、政宗がこの事件について咎めを受けた記録は無く、幕府の記録(寛政重修諸家譜)にも「(神保相茂は)奮戦して死す」とのみ記述されており、幕府が政宗に配慮し抗議を黙殺した、あるいは水野家家中への味方討ちに尾ひれが付いた伝聞が広まった可能性などが考えられる。(詳細は神保相茂の項を参照)
戦後の論功行賞で伊予国の内で10万石が政宗の庶長子である伊達秀宗に与えられた(宇和島藩)。

○晩年
世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備した。
北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。
この結果、仙台藩は表高62万石に対し、内高74万5千石相当(寛永惣検地)の農業生産高を確保した。
文化的には上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、国宝の大崎八幡宮、瑞巌寺、また鹽竈神社、陸奥国分寺薬師堂などの建造物を残した。
さらに近江在住の技師・川村孫兵衛を招き、北上川の河口に石巻港を設けた。
これにより北上川流域水運を通じ石巻から海路江戸へ米を移出する体制が整う。
寛永9年(1632年)より仙台米が江戸に輸出され、最盛期には「今江戸三分一は奥州米なり」と『煙霞綺談』に記述されほどになる。
2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕えた。寛永12年に家光が参勤交代制を発布し、「今後は諸大名を家臣として遇す」と述べると、政宗はいち早く進み出て「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たため、誰も反対できなくなった。
家光は下城する政宗に護身用に10挺の火縄銃を与えた。
健康に気を使う政宗だったが、寛永11年(1634年)頃から食事不振や嚥下に難を抱えるといった体調不良を訴え始めていた。
寛永13年(1636年)4月18日、母義姫を弔う保春院の落慶式を終えた後、城下を散策した政宗は経ヶ峰に杖を立て、「死後はここに埋葬せよ」と言った。
そこが後の瑞鳳殿である。
2日後の20日に参勤交代に出発した政宗は急に病状を悪化させ、宿泊した郡山では嚥下困難に嘔吐が伴い何も食べられなくなっていた。
28日に江戸に入った頃には絶食状態が続いた上、腹に腫れが生じていた。
病をおして参府した政宗に家光は、5月21日に伊達家上屋敷に赴き政宗を見舞った。
政宗は行水して身を整え、家光を迎えた。
しかしお目見え後に奥へ戻る時には杖を頼りに何度も休みながら進まざるをえなかった。
5月24日卯の刻(午前6時)死去。享年70(満68歳没)。
死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。
「伊達男」の名にふさわしく、臨終の際、妻子にも死に顔を見せない心意気であったという。
5月26日には嫡男・伊達忠宗への遺領相続が許された。
遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めた上で駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列により6月3日に仙台へ戻った。
殉死者は家臣15名、陪臣5名。
「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。
将軍家は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発した。
これは御三家以外で異例のことであった。
辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」。
法名から、没後は貞山公と尊称された。

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弘前城 

弘前城(ひろさきじょう)は、青森県弘前市にある城である。
別名・鷹岡城、高岡城。
江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し、また城跡は国の史跡に指定されている。
江戸時代には津軽氏が居城し弘前藩の藩庁が置かれた。

江戸時代には弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。
城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城である。
創建当初の規模は東西612メートル、南北947メートル、総面積385,200平方メートルに及んだ。
現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、8棟の建築と現存12天守に数えられる内の天守1棟が現存する。
現存建築はいずれも、国の重要文化財に指定されている。
小説家の司馬遼太郎は紀行文集『街道をゆく - 北のまほろば』で、弘前城を「日本七名城の一つ」と紹介している。

●天守(初代)
最初の天守は、弘前藩2代藩主津軽信枚により1609年(慶長14年)頃に本丸南西隅に建てられた5重の建物である。内部6階と推定される建築は東北地方では若松城天守に次ぐものであった。
しかし1627年(寛永4年)9月の落雷で出火し、天守内部に収納されていた火薬に引火して(4重目に吊るされていた釣鐘が落下して下層に収納してあった火薬に引火したとも)大爆発を起こして本丸御殿や諸櫓とともに焼失した。天守は再建されることなく、今でも天守台を支えていた石垣は本丸南西隅に聳えている。
なおこの天守火災は当時、藩主・信枚の伯母(初代津軽為信の正室・阿保良の姉)の祟りだと信じられていた。
伯母は為信のために、横内城城主で南部氏一族の夫・堤弾正左衛門から離縁され失意の内に病没しており、城はそれから30年ほども経ってから完成しているのだが時折、伯母の怨霊が城内に現れていたという。

●天守(御三階櫓)
本丸唯一の現存建築である天守は層塔型3重3階の建物である。
現在は独立式であるが、往時は北側に多聞櫓を付属させた複合式であった。
この多聞櫓は明治29年(1896年)ごろまでに破却されている。
天守の高さは約14.4メートルあり、現存する三重天守の中で最も低い。
1627年(寛永4年)に焼失した5重天守の代用として、またロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府の許しを得て、本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として建てられた。
1810年(文化7年)着工、1811年(文化8年)に竣工した。
往時は幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていたが、「事実上の天守」としての役割を持ち現在は書籍などの多くで天守として扱われている。
昭和24年(1949年)に松前城天守が焼失したため、現在最も北に位置する現存天守でもある。
外壁は白漆喰塗籠で、窓と狭間の上下に長押形を施し、また屋根瓦には寒冷地のため銅瓦を葺いている。
外側に面する東面と南面は1層目と2層目に大きな切妻出窓を設け、窓には狭間窓を用いるなど小さな建物を華美で大きく見せる視覚効果が施される。
一方で、内側である西面と北面には破風を全く付けずに連子窓を単調に並べただけである。
いわゆる「二方正面」である。内部も通常の天守建築では最高級の木材や技術が用いられるが、弘前城の場合は普通の櫓と同等の木材が用いられ、構造的にも簡素であり、床も全て敷居を設けず畳を敷くことが想定されていないなど、当初から倉庫として利用されることを見込んだ構造となっている。

●櫓・門
二の丸の現存櫓は3層の辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓の3棟である。
門は、三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭亀甲門の5棟がそれぞれ築城時の姿で現存し、以上は国の重要文化財に指定されている。
このほかに、二の丸東門与力番所が移築復元されている。
前述の通り現在は5棟の城門が残されているが、築城当初は10棟の城門があった。
この内のいくつかの門は、工期の短縮などのため、周辺の城郭より移築されている。
具体例としては北の郭北門(通称亀甲門)と三の丸北内門(通称賀田門)がそれにあたり、それぞれ大光寺城および大浦城から移築されている。
ちなみに、弘前城の門を参考に時代劇のロケ地に利用されるワープステーション江戸(茨城県つくばみらい市)に「江戸城大手門」が造られている。
外郭の南西に位置する禅林街は、長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)として出城の役割を担っており、堀、土塁、枡形などが残る。

弘前城


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tag: 弘前城  歴史  青森県  観光 
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大内宿 

大内宿(標準語・共通語:おおうちじゅく)、会津弁:おおちじゅく)は、福島県南会津郡下郷町大字大内にある旧宿場。
重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

南会津の山中にあり、全長約450mの往還の両側に、道に妻を向けた寄棟造の民家が建ち並ぶ。
江戸時代には「半農半宿」の宿場であったが、現在でもその雰囲気をよく残し、田園の中の旧街道沿いに茅葺き民家の街割りが整然と並ぶ。
大内宿本陣跡には、下郷町町並み展示館がある。
民宿や土産物屋、蕎麦屋などが多数立ち並ぶ。
特に蕎麦に関しては、高遠そばの名で知られており、箸の代わりにネギを用いて蕎麦を食べる風習がある。

○「半農半宿」期
復元された本陣。
下郷町町並み展示館として利用されている(2006年7月)
江戸時代に会津西街道(別名:下野街道、南山通り)の宿場として、寛永20年(1643年)頃に開かれ、盆地内を北北東から南南西に貫く街道に沿って整然とした屋敷割の街並みが形作られた。
同街道は、会津藩・若松城(会津若松市追手町)を出ると、福永宿(会津美里町氷玉福永)、関山宿(会津美里町氷玉関山)を経て山岳地に入り、氷玉峠および大内峠を越えて大内宿に入った。
大内宿からは中山峠を越えて倉谷宿に入り、日光街道・今市宿(栃木県日光市今市)へと至った。
若松城から江戸までは61里、5泊6日ほどの旅程であるが、若松から5里の距離にある大内宿には本陣や脇本陣が設置され、会津藩の参勤交代や迴米の集散地として重要な駅となった。
延宝8年(1680年)、江戸幕府が参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになったため、正保元年(1644年)から同年まで計21回あった大内宿を通る会津藩の参勤交代は途絶え、白河藩・白河城下町経由の白河街道にシフトした。
すると、会津西街道は中附駑者(なかづけどじゃ)と呼ばれる流通業者が主に使用する街道となったが、3年後の天和3年9月1日(1683年10月20日)の日光地震によって戸板山(現・葛老山。地図)が一部崩壊し、五十里宿(いかりじゅく)および周辺の街道が堰止湖に水没。
会津藩は会津西街道の機能不全を回復しようとしたが、代替路として新規開通した会津中街道に物流はシフトしてしまった。
40年後の享保8年(1723年9月9日)、大雨によって堰止湖が決壊すると会津西街道は復旧したが、既に定着した代替路や新たな脇街道との間で物流の競争を余儀なくされた。
そのため大内宿は、純粋な宿場町ではなく「半農半宿」の様相であったと考えられている。
慶応4年/明治元年(1868年)の会津戦争(戊辰戦争)で大内村も戦場となったが、宿場は戦禍を逃れた。
明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県で若松県下となったが、1876年(明治9年)8月21日に同県が福島県と合併したため、大内村は福島県下になった。
なお、1878年(明治11年)にイザベラ・バードが大内宿の美濃屋に宿泊しているが、一行が会津若松方面に向かう際には会津西街道沿いの大内峠を選択せず、市野峠を越える道を選んでいる。

○純農村期
1882年(明治15年)に福島県令となった三島通庸による会津三方道路の工事により、1884年(明治17年)には会津西街道が当地の東の小野岳を越えた大川(阿賀野川水系阿賀川の別名)沿いに付け替えとなって日光街道と改称した。
新街道から外れた大内宿では、1886年(明治19年)に宿場内の旧街道中央を流れていた用水路を2つに分けて両側に移し、街道の道幅を広げたりしたものの、賑わいは次第に失われていった。
1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴って大内村は周辺の村と合併し、楢原村となった。
日本鉄道(現・JR東北本線)と接続する岩越鉄道(現・JR磐越西線)が1899年(明治32年)に若松駅(現・会津若松駅)まで開通すると、会津と関東との間の物流は南会津を通らなくなり、さらに1927年(昭和2年)より大川沿いに順次延伸開業していった会津線によって、大内宿の宿駅としての地位は完全に失われた。

○近代化
1946年(昭和21年)11月20日、楢原村は町制施行して楢原町となるが、この年に当地にも電気が引かれ、ランプから電灯での生活に変化した。
1955年(昭和30年)4月1日には楢原町・旭田村・江川村が合併して下郷町が成立。
日本で高度経済成長が始まると、当地にも昭和30年代半ばにはテレビや耕運機を手に入れる世帯が見られ、昭和40年代になると簡易水道が引かれて近代化の波が押し寄せ始めた。
昭和40年代初頭から外部の研究者らが当地の生活調査や建築物調査などで盛んに来訪するようになると、当地の旧宿場の街並みが再評価され、また、その街並みは住民の生活習慣や互助組織に支えられていることが判明した。
その一方、当地は近代化から取り残されて昔のままの生活が営まれているとも評価され、外部の研究者らが街並みの保存活動を始めた。
1969年(昭和44年)6月26日の朝日新聞記事で当地が紹介されたことに端を発し、連日のようにマスメディア・研究者・観光客が当地に詰め掛け、1970年(昭和45年)放送のNHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』のロケーション撮影も行われて注目を浴び、同年、外部の研究者らが下郷町や文化庁に旧宿場の保存を訴えた。
このとき一部のマスメディアが、超高層ビルも建ち始めた都市部と比較して、当地が貧乏であるから茅葺屋根の家に住んでいる等と報道したため、住民は茅葺屋根の家に住むのをためらうようになり、住民による保存活動は盛り上がらなかった。

1976年度(昭和51年度)撮影の国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。
近代化によって、旧街道沿いの民家に赤や青のトタン屋根が目立つようになった。
県道下郷会津本郷線大内工区は未着工。
周辺農地も圃場整備実施前。
当地の近くで、1971年(昭和46年)より大川ダム、1974年(昭和49年)より大内ダムの建設が始まると、住民はダムの補償金や建設工事の従業収入を得。
また、農業などの第一次産業中心の生活から、通勤して第二次産業・第三次産業で現金収入を得る暮らしへと転換するようになった。
1975年(昭和50年)の文化財保護法改正によって重要伝統的建造物群保存地区制度が導入されたため、福島県は大内地区に保存地区選定申請を打診したものの、住民は生活の近代化を望んで拒否、旧街道は舗装され、新たに得た収入をもとに茅葺屋根をトタン屋根に葺き替えたり、台所・風呂・トイレの近代化をしたり、家屋の増改築をしたりするようになった。

○観光地化
茅葺屋根の駅舎に建て替えられた湯野上温泉駅
1970年代の2度のオイルショックを経て日本は安定成長期に入り、一億総中流が定着した。
1980年(昭和55年)7月12日、「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定。
同条例に基づき決定された伝統的建造物群保存地区は1981年(昭和56年)4月18日、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。
旧宿場としては長野県の妻籠宿および奈良井宿に続いて全国で3番目の選定である。
同年5月14日には「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例施行規則」も制定された。
同年9月、「大内宿保存会」が設立されて住民による町並み保存活動が始まり、「大内宿を守る住民憲章」も制定された
1984年(昭和59年)9月5日には、旧本陣を復元した建物に「下郷町町並み展示館」(大内宿町並み展示館)が開館した。
積雪期に観光客が減少する対策として、1986年(昭和61年)より2月に「大内宿雪まつり」を開催するようになった。
大内宿最寄りの会津線・湯野上温泉駅が、国鉄分割民営化に伴って1987年(昭和62年)4月1日に日本国有鉄道から東日本旅客鉄道に、さらに同年7月16日に会津鉄道(第三セクター鉄道)に承継されたが、このとき同駅舎も茅葺屋根に建て替えられ、同年12月19日に完成した。

○子安観音堂付近から見た大内宿(2006年7月)
並行して、1982年(昭和57年)から1988年(昭和63年)にかけて旧宿場に沿って道路の新設が行われ、1989年(平成元年)から翌年にかけて電柱・電話柱・テレビ共同受信柱・地区有線放送柱を新設道路に移設し、「裏配線」により旧街道の無電柱化を実現した。
その後、旧街道のアスファルト舗装を撤去して土の道を復元したり、観光駐車場を新設したりして環境整備をした。
すると1992年(平成4年)、第1回「美しい日本のむら景観コンテスト」の文化部門で、農林水産大臣賞を受賞した。
1996年(平成8年)には「大内宿の自然用水」として「日本の音風景100選」に選定。
1998年(平成10年)には「大内宿結いの会」が結成され、住民による茅葺屋根の復元や葺き替え技術の伝承が開始された。
2004年(平成16年)には「美しい日本の歩きたくなるみち500選」、2005年(平成17年)には「手づくり郷土賞」(大賞部門)を受賞し、「知っていそうで知らない日本の文化の発見」として「わたしの旅100選」にも選定された。
観光客数は、1985年(昭和60年)に約2万人であったが、バブル景気が始まると急増し、1990年(平成2年)10月12日に会津鉄道が野岩鉄道会津鬼怒川線および東武鉄道鬼怒川線・日光線・伊勢崎線との直通運転を開始すると、翌1991年(平成3年)には50万人を突破した。
その後は年間50万人前後で推移していたが、1997年(平成9年)に磐越自動車道が全線開通すると60万人を超えた。2003年(平成15年)に県道下郷会津本郷線氷玉バイパス(大内宿こぶしライン)が開通すると翌2004年(平成16年)には80万人を超え、2005年(平成17年)のあいづデスティネーションキャンペーンで様々にPRされると2006年(平成18年)には90万人、2007年(平成19年)には100万人を突破し、県外からの観光客が90%を占める県内有数の観光地となった。
観光客の増加に伴い、周辺道路に渋滞が発生するようになったため、2009年(平成21年)2月23日に「大内宿周辺地域渋滞対策協議会」が設立された。

大内宿の街並み

大内宿本陣


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大沢温泉(花巻市) 

大沢温泉(おおさわおんせん)は岩手県花巻市(旧国陸奥国、明治以降は陸中国)の花巻温泉郷にある温泉

一軒宿の「大沢温泉」が存在する。
但し一軒宿と言っても、新館である「山水閣」、南部藩主の定宿であった「菊水館」、湯治場である「自炊部」から成り、その規模は大きい。
一軒宿の入り口には、相田みつをの書が看板となって存在する。
自炊部にある豊沢川沿いの混浴露天風呂「大沢の湯」が有名である。

平安時代初期に坂上田村麻呂が発見したと伝えられる。
江戸時代には歴代の南部藩主も利用したといわれる。
また、宮沢賢治、高村光太郎らの文人もよく利用した。
宮沢賢治は農学校の教員時代に生徒を連れて訪れたこともあった。
高村光太郎はこの温泉を「本当の温泉の味がする」と評した。

毎年4月末に温泉地にて金勢まつりが催される。
大沢温泉の金勢神社の御神体は、重さ150kg、長さ1.4mのケヤキの金勢様と呼ばれる男根である。
金勢神社は大沢温泉の大久保山に鎮座しているが、冬期間だけ温泉内の仮宮に金勢様が移動されて安置されている。
「大沢温泉金勢まつり」は金勢様が大久保山の本宮に戻る前に、金勢様を担いで練り歩き、最後に露天風呂に半纏姿の女性たちが入浴させて洗い清めるというもの。
金勢様が入った温泉に入浴すると、縁結びや子宝に霊験があるとされている。
なお、温泉は女陰であるとされ、温泉が枯れないように男根である金勢様を祀っているといわれている。
そのため東北地方には大沢温泉のように金勢様を祀っている温泉が多い。

大沢温泉


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