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日々明々

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山形県 

山形県(やまがたけん)は、日本の東北地方南西部の県。日本海に面する。県庁所在地は山形市。

県域を地図で見ると人間の顔の形(西向きの横顔)をしている。県の東側一帯で宮城県との境に奥羽山脈、県の西部に朝日連峰がそびえているように、県域の大半 (85%) を山地が占め、総面積に対する森林の割合は 75% 、農業用地の割合は15%である。県の中央には最上川が流れる。
県民の多くがこの川の流域に住んでいるため、「母なる川」とも呼ばれている。北西側の日本海上には県唯一の離島、飛島がある。

県下には、以下の13市8郡19町3村がある。
町は「まち」(河北町では「ちょう」)、村は「むら」と呼んでいる。また、全国的に行われている市町村合併による新規市制の発足において、新しい名称の市が誕生しなかった数少ない都道府県(他に神奈川県、大阪府、鳥取県、宮崎県)である。

○古代
今から約3万年前頃(後期旧石器時代)に大型哺乳動物(ナウマンゾウ、オオツノシカ、ヘラジカなど)を狩猟する人々が山形に現れた。その時代の遺跡として最上川(真木遺跡朝日町)や荒川(荒川遺跡小国町)・赤川などの主要河川やその支流(明神山遺跡寒河江町寒河江川)の河岸段丘上に100カ所以上見つかっている。それらの遺跡からは、槍先に使う斜軸尖頭器や木の枝や骨に溝を付けそこに埋め込み利器とした石刃などの狩猟用道具が多く発見されている。
山形県で古墳文化が到来した時期は、思いのほか早く(海上の日本海側の交易ルートは新潟の糸魚川産の翡翠などの例もあるように古代から拓けていたため)、米沢盆地内の米沢市摘山古墳や南陽市蒲生田山2 - 4号墳は、4世紀前半には造営されていた。そして、県内最大、東北5番目の大きさを誇る前方後円墳の稲荷森古墳(全長96m、南陽市)が出現したのは375 - 400年の頃であった。
出羽国の南部に当たる地域。古くは越後国と陸奥国の一部であったが、越後国からの要請があり、708年(和銅元年)出羽(でわ)郡が置かれた。出羽は初め「いでは」と読み「出端」の意味で、越後の国からみて北端に出ていたことから命名されたらしい。さらに翌年、出羽柵が出羽郡に設置された。出羽郡の範囲は、ほぼ最上川より以南の庄内地方を指していたらしいが、位置についての説は色々あって確定していない。712年(和銅5年)9月、出羽国建国が奏上され、元明天皇から裁可されて、同年10月に陸奥の国から最上・置賜の2郡を分けて出羽郡に合併し、出羽国が設けられ、庄内に国府が置かれた[2]。県名は、山の近くという意味の町名、山方に由来すると言う。

○中世
霞城公園 最上義光像
斯波氏 - 奥州管領・羽州探題 - 最上氏 - 伊達氏 - 武藤氏
室町時代には陸奥国の奥州探題・斯波氏が分派して山形に住み着き、地名を採って最上氏と称した。また、室町時代初期に陸奥国伊達郡を拠点としていた伊達氏が置賜地方に侵攻し長井氏を滅ぼし支配下においた。
戦国時代は最上地方の最上氏、置賜地方の伊達氏(天文の乱の後、本拠を伊達郡から米澤に移した)、庄内の大宝寺氏が割拠した。最上氏は最上義光、伊達氏は伊達政宗の名将が登場し、一大版図を築いた。関ヶ原の戦いにおいては、会津・上杉軍と山形・最上氏との間で激戦が繰り広げられた。(長谷堂城の戦い)

○近世
江戸時代には庄内藩そして現在の酒田市にある支城の亀ヶ崎城、米沢藩、米沢新田藩、新庄藩、山形藩、上山藩、(出羽)松山藩(→松嶺)、天童藩、長瀞藩の各藩があった。明治時代の地方区分では、羽前国全域と、羽後国の飽海郡が、現在の山形県に相当する。
豊臣秀吉の奥州仕置 - 長谷堂合戦 - 米沢藩 - 上杉鷹山 - 羽州街道 - 清河八郎
幕末(1867年)に現県域内にあった藩
米沢藩 - 米沢新田藩 - 上山藩 - 山形藩 - 長瀞藩 - 天童藩 - 新庄藩 - 庄内藩(鶴岡藩) - (出羽)松山藩

○近代

明治時代の山形県庁

旧山形県庁舎 文翔館
1868年(明治元年) - 戊辰戦争
12月 - 戦後処理として米沢・上山・天童・鶴岡(庄内)・松山の各藩が減封される
1869年(明治2年)6月 - 版籍奉還後、米沢新田藩が廃され米沢藩へ編入。他の藩は存続するが、鶴岡藩は大泉藩、松山藩は松嶺藩と改称される(鶴岡藩の改称は9月)。
1869年(明治2年)7月 - 酒田県(第1次)を設置。羽前国村山郡の長岡代官所(現寒河江市に所在)管轄の旧幕府直轄地(天領)113村、棚倉藩領12村、上山藩領7村、館林藩領2村、田川郡の大泉藩領99村、羽後国飽海郡の大泉藩領244村、由利郡の旗本領20村、亀田藩領3村を管轄
1869年(明治2年)11月 - 長瀞藩が上総国(現千葉県)に移転(→大網藩)。羽前国内の旧領4村を酒田県に編入。
1870年(明治3年)7月 - 山形藩が近江国(現滋賀県)に移転(→朝日山藩)。羽前国内の旧領51村を酒田県に編入。
1870年(明治3年)9月 - 酒田県が山形に移転し、山形県が設置される
1871年(明治4年)7月 - 廃藩置県により米沢県、上山県、天童県、新庄県、大泉県、松嶺県が設置され、既存の山形県とともに7県となる
1871年(明治4年)8月 - 天童県が廃され、山形県に編入される
1871年(明治4年)11月 - 第1次府県統合により山形県(村山郡・最上郡)、置賜県(置賜郡)、酒田県(第2次。田川郡・飽海郡)の3県に統合される
1875年(明治8年)8月 - 酒田県(第2次)の県庁が鶴岡に移転し鶴岡県と改称される
1876年(明治9年)8月 - 第2次府県統合により山形、置賜、鶴岡の3県を統合し現在の山形県となる。初代県令に三島通庸が就任。現在の山形市旅篭町に県庁設置。
1878年(明治11年) - 郡区町村編制法により村山・置賜・田川の各郡を分割。県内に次の11郡が設置される。
南村山郡、東村山郡、西村山郡、北村山郡、最上郡、南置賜郡、東置賜郡、西置賜郡、東田川郡、西田川郡、飽海郡
1889年(明治12年)4月 - 南村山郡山形・南置賜郡米沢がそれぞれ市制施行し、山形市・米沢市となる。町村制により、8町213村が誕生。
1891年(明治14年) - 県下に郡制を布く
1911年(明治44年)5月8日 - 山形市北大火により山形県庁全焼
1924年(大正13年)10月1日 - 西田川郡鶴岡町が市制施行し、鶴岡市となる
1933年(昭和8年)4月1日 - 飽海郡酒田町が市制施行し、酒田市となる
7月25日 - 山形測候所で40.8°Cを記録。2007年(平成19年)8月16日に熊谷市および多治見市で40.9°Cが観測されるまで、74年間にわたって国内最高気温であった。
1968年(昭和43年) - 13市27町4村の体制となる
1975年(昭和50年)9月9日 - 山形県庁を現在地に新築移転
2005年(平成17年)- 13市19町3村の体制となる

山形県


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秋田県 

秋田県(あきたけん)は、日本の東北地方の県のひとつで、日本海に面する。
県庁所在地は秋田市。

秋田県は日本海に面しており、気候区分は日本海側気候に分類される。
同じ日本海側の山形県や新潟県と同様に冬季には対馬暖流の影響もあってか日本海側から湿った冷たい風が吹き、みぞれや雪を降らせる。
一部例外もあるが隣県の山形県と同様に県全域のおよそ90%の地域が特別豪雪地帯に指定されており、雪が多く降り積もりやすい。
冬季間の日照時間は全都道府県の中で最も少ない。
そのため、朝晩の放射冷却現象が起こらず、特に日本海側沿岸部などは関東平野内陸部よりも朝の気温が高いことも多いなど緯度の割には温暖であり日較差が非常に小さいのが特徴である。
内陸部の一部はケッペンの気候区分による亜寒帯湿潤気候となり、寒さが厳しい。
また、時として秋田沖付近に発生する極低気圧からもたらされる暴風雪やゲリラ豪雪による悪天候も決して珍しくない。
一方、日本海側気候でありながら夏季は高温多湿でどんよりとしており、梅雨明けのないまま秋を迎えることも珍しくない。
しかしながら太平洋側から吹く季節風は奥羽山脈の山々に遮られ、時としてフェーン現象が発生することがあり、冷害をもたらすと言われるやませも遮られ、特に県内陸部中央から県内陸南部では気温が上昇し真夏日や猛暑日に、夜は熱帯夜になることも決して少なくない。そのためか四季の表情がはっきりとしている。

現在の秋田県は令制国での出羽国(明治初年に羽後国)と陸奥国(明治初年に陸中国)の一部からなる。
「秋田」の名前の由来は土壌が稲作に向かなかったため付けられた「悪田」が転じたものだとも、アゴに似た地形から付けられた「齶田(あぎた)」が転じたものだともいわれている。
天平時代に「秋田」の表記で定着した。

○古代
秋田県にも旧石器時代から人が住んでいた証拠としてたくさんの遺跡が発掘されている。それらの遺跡から人の手によって加工された石器がたくさん出土している。それらの石器は生活の道具として使用されたのであろう。製作技術からナイフ形石器、細石刃などと命名されている。このうち細石刃は木や骨などに溝を彫ってそこに埋め込み、鋭利な刃物として使用したと推測され、旧石器時代終末から縄文時代草創期にかけて使用されたと考えられている。
遺跡としては、1969年(昭和44年)から5次にわたって発掘された大仙市協和町の米ヶ森遺跡がはじめである。この遺跡からは石器・石核・石片などおよそ1000点が出土している。この後は工業団地や自動車道などの建設工事で多くの遺跡が発掘調査されている。
今からおよそ1万2000年前になると土器が製作されはじめ、定住生活も始まった。縄文時代である。縄文人によって、現在の秋田県域にも縄文文化が栄えた。
縄文後期の墓地遺跡であるストーン・サークル(環状列石・石籬;せきり)が1931年(昭和6年)に確認された。1951年(昭和26年)と翌年の1952年(昭和27年)にも考古学研究の国営事業として発掘調査が行われたので全国的に知られるようになった。その遺跡は鹿角市の大湯にあり、同規模の2つの環状列石で、西側が万座遺跡、東側が野中堂遺跡である。やや大きい万座遺跡は、環状部分が直径46メートルある。太平洋戦争中は「神代」(かみよ)の遺跡として扱われた。
西日本では、この縄文人に加え弥生時代頃から弥生人と呼ばれるユーラシア大陸東部からの移住民が増えた。雑多な民族は次第に統一され、ヤマト民族としての統一国家が近畿地方を中心に形成された。これが後に朝廷と呼ばれるようになる。
朝廷は8世紀に国号を「日本」と改めた。現在の秋田県を含む東北地方北部はこの時点で、朝廷に属していなかった。そのため朝廷はこの地方への征服活動を進めた。
8世紀の前半に朝廷により日本海沿岸北辺の交易・征服などの拠点として出羽柵が現在の山形県庄内地方に設置されるが、733年(天平5年)12月26日、出羽柵は秋田村高清水岡(現在の秋田県秋田市)へ移設された(続日本紀)。出羽柵は760年頃に秋田城に改称される。780年には出羽国府が秋田に移されたが、エミシ民族(蝦夷:縄文人の末裔とも、朝廷に属さないヤマト民族ともいわれる)の反撃によって秋田城が陥落し、出羽国府は再び移されることになった。秋田城はこの後朝廷側によって再建され、北東北日本海側征服の一大拠点となる。この頃になると墾田の私有が認められ、地方豪族の勢力はいっそう発展した。9世紀頃には太政官命令で、勝手に開墾地を私有し農民を困らせてはならぬとの規則が出るほどになる。
878年(元慶2年)元慶の乱が起こった。これは重い税や労役の苦しみに耐えかねた蝦夷の秋田城司に対する反抗であった。秋田城や民家は焼き払われ、多くの物資や兵を失った。朝廷は急いで陸奥国から五千人の援軍を派遣したが平定に失敗し、新任出羽守の藤原保則を派遣した。保則は反乱の平定に蝦夷をもって当たらせることで成功した。この後、城の修復や兵力の増強をはかったが、939年(天慶2年)には再び天慶の乱が発生した。当時はこのように蝦夷に対する朝廷の力は絶対的なものではなく、「俘囚の長」と呼ばれたヤマトに服属するエミシ民族の地方豪族の力は加速度的に強大になっていった。

○前九年の役と後三年の役
中央の律令政治が衰えるとともに、私有地の占領が次第に増え、農民は有力豪族の保護を求めるようになり、蝦夷地の各所には豪族を中心とする武士の集まりができた。豪族は更に、重要地点に分家を配して勢力を拡げて団結を強固にした。その中の有力だったものが陸奥の安倍氏、出羽の清原氏である。
北上川中流以北に勢力を広げていた安倍氏は朝廷に対する貢租・徴役を怠り、横暴な態度であるというので朝廷は討伐を行った。これが前九年の役(1051 - 1062) である。しかし、当時の陸奥守や秋田城介の力では討伐ができず、新興武士であった源頼義が陸奥守として向けられ、七年以上にわたり戦いを繰り広げた。頼義も自軍のみで討伐できずに横手付近に根拠をおいた豪族清原光頼に臣下の礼の形を取り参戦を依頼した。光頼は弟の武則を大将とする一万余の兵を出し、遂に討伐に成功した。源頼義、義家の兵力はわずか三千であったが、この清原氏が出した兵力だけでもその武力を伺い得る。
しかしこの後、武則の孫の代にいたって一族争いが起こり、家衡が出羽国、沼柵(現在の横手市雄物川町沼館)に立てこもる。家衡はここを源義家に攻められ、金沢柵(横手市金沢中野)に移ったが、遂に敗れた。これが後三年の役(1083 - 1087) である。この戦の後に、清衡が奥州藤原氏として栄えた。

○中世
奥州藤原氏は初代の清衡から二代基衡、三代秀衡を経て四代泰衡に至るまでのおよそ一世紀(11世紀末 - 12世紀末)にわたって栄え、東北の天地は完全に豪族の支配下になった。藤原氏の支配原理は、代々押領使を世襲することで軍事指揮権を公的に行使し、併せて荘園の管理も請け負うというものであり、当時の秋田では比内郡の河田氏、秋田郡の大河氏、由利地方の由利氏が藤原氏の支配下にあったと言われているが、近年の研究では出羽国に奥州合戦後も御家人として在地支配を許された豪族が多いことおよび渥美・常滑焼が広まった平泉付近を中心とする太平洋側と珠洲焼の出土が多い秋田郡近辺の陶器文化圏が異なることから、在地領主の家人化が進んだ陸奥国と押領使としての軍事指揮権に留まった出羽国の差を指摘する見解もある。特に出羽北部である秋田地方には荘園が存在せず、公領制一色の世界であったため、どの程度まで奥州藤原氏の支配が及んだかは疑問であるとされている。
隆盛を極めた藤原氏も、鎌倉幕府を創設した源頼朝が平泉の藤原氏にのがれた弟義経を追討することによって打ちくだかれる。頼朝は1189年、十九万の軍勢を率いて奥州征伐を行った。藤原泰衡は平泉から蝦夷地への逃亡を始めたが、途中立ち寄った河田氏の元で裏切りに遭い、河田次郎によって討ち取られる。同年12月に挙兵した大河氏の大河兼任も挙兵3か月で討ち取られた。
数世紀にわたった豪族の天下も、この藤原氏の滅亡で幕を閉じ、東北は完全に頼朝の支配下となった。藤原氏を倒した頼朝は、御家人、地頭職を新たに東北各地に配し、東北における大きな政治的転換点となった。頼朝が秋田に配した御家人は成田氏、安保氏、秋元氏、奈良氏、橘氏、浅利氏、平賀氏、小野寺氏などであった。また由利氏は藤原氏に仕えていたが、そのまま由利地方を治めることとなった。これらの豪族はほぼそのまま藩政以前までその地を治めることとなる。
その後、日本海北部に勢力を持った安東氏(安藤氏ともいう)が津軽地方から南下し、戦国時代になると檜山安東氏と湊安東氏の一族抗争があったものの、安東愛季の時代に最盛期を迎えた。横手盆地には戸沢氏、前田氏、本堂氏、六郷氏、小野寺氏などが勢力を持っていた。由利郡は由利氏の一族と地頭であった小笠原氏の子孫などが中小の豪族に分かれ由利十二頭と呼ばれる勢力になった。

○近世
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍を破った徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、幕府を江戸に開いて天下の実権を握った。秋田県下の諸大名は西軍についた小野寺氏以外は所領安堵されたが、慶長7・8年にほとんどが常陸に移らされて、多くの地域は鎌倉以来となる長年の領主と住民のつながりは切れた。幕府の武家諸法度、参勤交代制度、各大名の労力奉仕などのため、大名の財政は次第に困窮し、反対に幕府の支配力は強化されていった。
1602年(慶長7年)、秋田郡を領有していた秋田実季(安東氏から改姓)と入れ替わりで、関ヶ原の戦いで西軍に内通していた佐竹氏が常陸国から転封される。初代藩主は佐竹義宣。義宣ははじめ秋田氏の居城であった湊城(現在の秋田市土崎港)に本拠を置いたが、まもなく神明山(秋田市千秋公園)に久保田城を築いて居を移し、藩内を治めることとなる。その組織としては、領内統治を担当する家老の下に財政担当の勘定奉行、城下支配の久保田奉行、そのほか能代奉行、各郡の郡奉行、鉱山支配の銅方奉行、山林支配の木山奉行などを配した。このような藩の組織機構の下、直接生産を営む農民と、その中間の商人・職人が位置づけられ、新たな時代の生活が始まった。
佐竹氏は54万石の常陸から、明治まで表高20万石の久保田藩を治めることになったが、実際の内高は開墾などで田地が増し、40万石ぐらいであったとされる。領内に存在した院内鉱山や阿仁銅山諸鉱山および全国的に著名な秋田杉などによって久保田藩財政は潤っていたと言われている。
近世の秋田地方からは思想家の佐藤信淵・平田篤胤や秋田蘭画を切り開いた佐竹義敦・小田野直武らが出ている。また、本荘藩領にあった象潟は全国的に著名な景勝地であったため、松尾芭蕉らもこの地を訪れている。
初代 義宣 (よしのぶ)(1602-1633)
二代 義隆 (よしたか)(1633-1671)
三代 義処 (よしずみ)(1671-1703)
四代 義格 (よしただ)(1703-1715)
五代 義峯 (よしみね)(1715-1749)
六代 義真 (よしまさ)(1749-1753)
七代 義明 (よしはる)(1753-1758)
八代 義敦 (よしあつ)(1758-1785)
九代 義和 (よしまさ)(1785-1815)
十代 義厚 (よしひろ)(1815-1846)
十一代 義睦 (よしちか)(1846-1857)
十二代 義堯 (よしたか)(1857-1869)
幕末時点で後の秋田県下に領地が存在した藩は、久保田藩・本荘藩の他に、岩崎藩・亀田藩・矢島藩・交代寄合旗本の仁賀保氏の仁賀保陣屋・盛岡藩領鹿角郡があった。また、横手・大館に久保田藩城代が置かれた。
1868年に始まった戊辰戦争で、久保田藩ら出羽諸藩は奥羽越列藩同盟に加わる。しかし、久保田藩内の勤皇派がクーデターを起こして久保田藩は一転新政府側となったため(前後して岩崎藩・本荘藩・矢島藩も転向、亀田藩は転向後同盟軍に再加入)、ほかの奥州諸侯の標的となった(秋田戦争)。最終的に勝利したものの、久保田藩領の大半は荒廃したと言われる。

秋田県


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福島県 

福島県(ふくしまけん)は、東北地方南部(南東北)にある県。
県庁所在地は福島市。太平洋に面し、奥羽山脈の東西にまたがって存在する。

地形・気候・交通・歴史などの面から、太平洋と阿武隈高地に挟まれた「浜通り」、阿武隈高地と奥羽山脈に挟まれた「中通り」、奥羽山脈と越後山脈に挟まれた「会津」の3地域に分けられる。
現在の福島県は、1876年8月21日に磐前県(いわさきけん。浜通り)と福島県(1876年以前)(中通り)と若松県(会津)の3県の合併によって成立した。

県の広域行政単位は、これらをさらに細分している。
方言単位は、上記3区分の他に、3区分横断的な南北分類もされる(関東方言の影響が県南部で見られるため)。
人口の大きな自治体は、人口順にいわき市、郡山市、福島市となっているが、3市とも30万人前後である。商業統計では郡山市・福島市・いわき市の順、都市圏人口では郡山都市圏、福島都市圏、いわき都市圏の順である。
3市はそれぞれの分野に特化し、行政機能が集中する福島市、経済・交通の中枢で商業・内陸工業・流通都市となっている郡山市、広大な面積を持ち工業・観光に特化するいわき市となっている。
また、会津地方の中心都市で史跡旧跡が多く存在する歴史都市会津若松市も上記3都市に比べ小規模ながら重要な地点となっている。
県名の福島は、福島城から採られた。

福島県を含む北関東・東北地方における人の足跡は、後期旧石器時代に始まる。
県域における遺跡としては平林遺跡(桑折町)や会津若松湊の笹山原遺跡群がある。
この遺跡から旧石器時代人が製作し使用したとみられる石器群が発見されている。年代は約2万2000年前の AT よりも下から出土していることから、後期旧石器時代前半に属する。
少しくだって約1万5000年前の塩坪遺跡(喜多方市高郷町)から熱を受けた139個のこぶし大の石がまとまって発見された。
この時代はまだ土器がなく、焼石は食材を直接加熱するのに使用されたのであろう。


○東北地方最大の前方後方墳・大安場古墳
縄文時代・弥生時代を経て古墳時代に入るが、福島県は大型の古墳が少ない東北地方にあって大安場古墳(郡山市、前方後方墳、全長約 83m)、会津大塚山古墳(会津若松市、前方後円墳、114m 、4世紀後半、東北最古級、割竹形木棺検出、三角縁神獣鏡出土)、亀ヶ森・鎮守森古墳(会津坂下町、前方後円墳、127m)などの大型の古墳が集積する。
古墳時代、畿内に前方後円墳が登場するのとほぼ同時期に会津地方でも前方後円墳が作られ始めており、すでに大和朝廷の影響下にあったことが窺える。
古墳時代中期以降は、会津地方の古墳造営が減少し、代わって中通りで盛んに古墳が作られた。
中通り地方の前方後方墳は隣接する那須地方(那須国造)で盛んに築造された前方後方墳の影響を受けたと考えられている。

○古代
5世紀にはすでに北関東・東北の一部までがヤマト王権の影響下にあったと思われ、福島県域においても各国に国造が成立した。
当初、大和朝廷の勢力圏は福島県域が北限であり、蝦夷勢力圏との境界に当たる信夫国(福島盆地)などの国には防備の任もあった。
また、関東や近畿地方などから、盛んに開拓のための移民も行われている。
その後、国は評(こおり)と呼び名が代わり、陸奥国に再編された。
また、大和朝廷の勢力圏も宮城県域、あるいはさらに北に拡大し、信夫評(しのぶごおり)も「北端」ではなくなった。
701年(大宝元年)の大宝律令の施行時には陸奥国となり、評は郡、評司(国造)は郡司になった。
拡大した陸奥国から718年(養老2年)に石城国と石背国が分置された。

石城国 - 菊多郡、石城郡、標葉郡(しねはぐん or しめはぐん)、行方郡(なめかたぐん)、宇太郡、曰理郡(わたりぐん)の6郡
石背国(いわせのくに) - 信夫郡、安積郡、石背郡、白河郡、会津郡の5郡
現福島県域は石城国または石背国に属することとなり、陸奥国の領域ではなくなった。
分置後も蝦夷との戦いが続き、東北全体(陸奥・出羽)で戦う必要性起こってきたので、724年(神亀元年)までには石城国と石背国は再び陸奥国に合併された。
これらの郡は、その後、人口の増加などにより、さらに再分割されている。
例えば信夫郡から伊達郡が分割され、安積郡からは安達郡などが分割され、会津郡も耶麻郡を始め多くの郡に分割された。


○白水阿弥陀堂(国宝)
現在、福島県域は岩盤が固くて地震が少ないから「岩代国」と呼ぶ、という説があるが、これは「岩」という文字のイメージから生まれた俗説である。
岩代国の由来は石背国にある。
石背国の読み方は本来「いわせ」であったが、後に山背を「やましろ」と読むのに習って「いわしろ」とも読むようになったと思われる。
明治旧国名では「いわしろ」の読みを採用し、「岩代」の文字を当てた。

平安時代には会津で恵日寺が強大な勢力を得たが、平安時代末期にはほぼ福島県全域が奥州藤原氏の勢力下に入り、藤原氏一族の信夫佐藤氏が福島盆地を本拠地として、中通りの中部まで、恵日寺後退後の会津、山形県置賜地方まで支配するまでになった。
平安末期、福島県内で他には中通りの石川氏、浜通りの岩城氏があった。
石川氏は清和源氏の流れで前九年の役に従軍して石川郡に定住した。
岩城氏は桓武平家の氏族で、藤原清衡の養女を妻に迎えて石城郡に定住したとも石城郡司の子孫とも言われる。
国宝白水阿弥陀堂は平安時代末期1160年(永暦元年)に岩城則道の菩提を弔うために建立されたものである。


○鎌倉開府から戦国時代まで

相馬野馬追
中世においては源頼朝が鎌倉に幕府を開府し東国において自立するが、頼朝は東北において奥州征伐により奥州藤原氏を滅ぼす。
県域においては信夫佐藤氏が信夫荘(信夫郡の西北、松川以北)に押し込められると、鎌倉による論功行賞で福島県内は伊達氏、相馬氏、二階堂氏、蘆名氏、畠山氏、結城氏など、多数の関東武士団に細分化された。南北朝の動乱においては結城氏の一族である白河結城氏が台頭し、白河結城氏を主力とする南朝方が大いに優勢となったが、しばらくすると相馬氏など北朝方が盛り返し、白河結城氏など多くの諸氏は奥州管領や鎌倉公方の支配を受けるようになる。
戦国時代に北関東・東北においては一国以上の領国を持つ戦国大名は少なく中小の地域勢力が分立する傾向をもっているが、伊達氏は伊達稙宗が南奥羽で外征や婚姻外交を繰り返し南奥羽のほとんど大名が勢力下に入るが天文の乱を起こし衰退したり、白河結城氏が衰退し代わって岩城氏が勢力を盛り返すなど、栄枯盛衰は止むことはなく、隣接する常陸国佐竹氏や越後国上杉氏の影響も受けるようになるが、最終的には蘆名氏や相馬氏、二本松氏などを圧倒した伊達氏の伊達政宗が短期間ではあるが、福島県域の浜通りを除く大半を領有することになる。
相馬野馬追は、相馬氏の遠祖・平将門が領内の下総国相馬郡小金原(現在の流山から松戸に広がる地域)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われている1000年以上の歴史を持つ神事である。


○天正政府と徳川藩政時代

重要伝統的建造物群保存地区
大内宿

若松城(鶴ヶ城)

白河小峰城


○本丸お堀がきれいに残る棚倉城跡
豊臣秀吉による奥州仕置により伊達政宗が伊達氏の元の本領以外没収され、会津には蒲生氏郷が入る。翌年の葛西大崎一揆の戦後処理で伊達政宗が岩出山に移封させられると、蒲生氏郷が福島県中通り以西のほとんどを領有した。しかし子の蒲生秀行は会津から宇都宮に移され、代わって越後国の上杉景勝が会津120万石を得て福島県の中通り以西のほとんどの地域と山形県の置賜地方を領有した。
関ヶ原の戦いによって上杉景勝は信夫郡伊達郡を除く福島県域の所領を失い、30万石となる。代わって会津には蒲生秀行が再度入封し、会津藩60万石が成立する。が、2代目の蒲生忠郷が早世し伊予松山藩に移ることになる。次に1627年加藤嘉明が40万石で会津に入封するが、これも2代目加藤明成で会津騒動を起こして領地を徳川幕府に返上した。そして、1643年に松平氏保科正之が23万石で入封し、この松平氏会津藩が戊辰戦争まで続くことになる。
一方、信夫郡と伊達郡も1664年に上杉氏米沢藩から召し上げられ、会津藩以外の大藩はなくなり、会津と浜通り夜ノ森以北(相馬氏領)を除く県内のほとんどの地域で、江戸時代を通じて小藩、天領が入り乱れて激しく変遷した。
江戸時代に会津若松と日光街道を結んだ重要な交通路会津西街道(下野街道)の宿場大内宿が当時の街並みのまま重要伝統的建造物群保存地区として残され往時を偲ばせる。


○幕末から福島県成立まで
1868年 - 1869年、戊辰戦争
会津戦争
白虎隊

諸外国の接近によって、幕府の政治が停滞。その中で尊王攘夷や開国といった主導で日本を立て直そうとする各藩の武士たちが京都に押し寄せた。当代の会津藩主松平容保は京都守護職となり、京都の治安維持を担った。そして禁門の変では、孝明天皇を奪取しようとした長州藩勢から御所を守り抜いた。
しかし、新たに政治を担いたいと幕府を廃しようと目論む薩長同盟(薩摩藩・長州藩)との衝突が、大政奉還後の鳥羽・伏見の戦いから生じ、朝廷側を血守したにも関わらず朝敵に落とされてしまい、相争うが徳川幕府側は幾度も敗北を重ねた結果、戦禍が東北にまで伸びてしまった。圧倒的な西洋戦法を有する薩長の軍勢に、会津藩士は元より、奥羽越列藩同盟の磐城平藩や中村藩などでも各藩の勢力や民衆は徹底して反撃を繰り返したが、降伏してしまった。

廃藩置県
江戸時代幕末に置かれた藩及び城郭、交代寄合陣屋としては会津藩、支城の猪苗代城、二本松藩、棚倉藩、中村藩、三春藩、磐城平藩、福島藩、泉藩、湯長谷藩、下手渡藩、水戸藩支藩の守山藩、幕末に徳川幕府直轄地となった白河城、仙台藩の支城谷地小屋城などがあり、交代寄合の溝口家の横田陣屋、その他に代官陣屋もあった。
明治初期、版籍奉還後の1869年(明治2年)の太政官令により、陸奥国(むつのくに)南端である現在の福島県域は陸奥国から分離し、西側が岩代国(いわしろのくに)、東側が磐城国(いわきのくに)となった。岩代国は現在の福島県中通り地方の中北部と会津地方。磐城国は現在の福島県中通り地方南部と福島県浜通り地方と宮城県南部(亘理郡、伊具郡、刈田郡)にほぼ相当する。
1869年(明治2年)7月20日、福島藩が重原藩に移封され幕府領となっていた伊達郡、信夫郡を管轄するために福島県(第1次)が設置され、安達郡の二本松藩領37村、伊達郡の幕府領42村、盛岡藩領8村、棚倉藩領4村、館藩領2村、信夫郡の幕府領43村、重原藩領19村、足守藩領11村、新発田藩領8村、関宿藩領6村、二本松藩領4村、棚倉藩領2村、宇多郡の幕府領1村を管轄した。この第1次福島県は後述の二本松県に統合され、わずか2年で廃止されている。
1871年(明治4年)7月(旧暦)の廃藩置県で全国に多数の県が生まれた後、同年11月(旧暦)に現在の福島県域は、岩代国の会津地方(旧会津藩領の越後国蒲原郡の一部[のち東蒲原郡]を含む)が若松県、岩代国と磐城国からなる中通り地方が二本松県(二本松県になって、わずか12日間後に県庁が信夫郡福島町に移転、福島県に改称したのでほとんど機能はしていない)、磐城国はほぼそのまま磐前県(いわさきけん)の3つの県として統合された。
1876年(明治9年)8月21日に、福島県(第1次)、若松県、磐前県が合併され、現在の福島県(第2次)が成立した。その際、磐前県北部(亘理郡、伊具郡、刈田郡)が宮城県に、磐前県南部の一部が茨城県に移管され、さらに1886年(明治19年)に東蒲原郡が新潟県へ移管されて、現在の福島県域になった。これらの変遷は最後の東蒲原郡移管を除いて、1869年(明治2年)の藩の制度化の後、1871年(明治4年)の廃藩置県から1876年(明治9年)までの間に、あわただしく行われた(誤解されがちだが江戸時代には公式に「藩」という制度はなく、藩は版籍奉還によって明治2年に制定された制度である)。

福島県


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宮城県 

宮城県(みやぎけん)は、日本の県の1つで、東北地方に属する。
東は太平洋に面し、西は奥羽山脈に接する。県庁所在地は仙台市。

県の太平洋沿岸部から奥羽山脈の麓にかけて広大な平野部を持ち、ササニシキ、ひとめぼれなどの稲作中心の農業が行われており、米所として有名である。
また、世界三大漁場の三陸沖漁場に近いため、県内には気仙沼漁港、石巻漁港、塩釜漁港の3つの特定第3種漁港を初めとする142の漁港があり、全国屈指の水揚げ量を誇る。
1県に複数の特定第3種漁港を持つ県は、日本国内において宮城県が唯一である。
カツオ、サンマ、マグロのほか、カキ、ふかひれ、ホヤなどの特産の水産物を持つ。
その他、高級和牛牛肉の仙台牛、イチゴやナシなどの果物、伝統野菜に山菜など、豊富な食材を多く産出している点から、県は「食材王国みやぎ」を宣伝句に掲げている。

歴史的には、現在の宮城県の領域は古墳時代からヤマト王権の影響下にあり、雷神山古墳や陸奥国府と推定される官衙(郡山遺跡)が名取郡に置かれ、後に宮城郡に多賀城(陸奥国府・鎮守府)や陸奥国分寺、陸奥国分尼寺が置かれた。
室町時代になると、奥州管領となった大崎地方の大崎氏を中心に東北地方の支配体制が構築された。
17世紀に伊達政宗が大崎地方の岩出山城から宮城郡に移り、仙台城を築いて城下町を開いた。
戊辰戦争の敗戦で、明治政府直轄領となった石巻県が国の東北地方を統轄する拠点とされたが、間も無く廃藩置県で仙台藩が仙台県となると、仙台に東北地方を統轄する国の出先機関などが置かれるようになった。
仙台県は、約半年後に城下町が所在する宮城郡の名を採って宮城県と改称された。

宮城県



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えんぶり(民族芸能) 

えんぶり(朳)とは、初春の神事として青森県八戸市一円を中心とする東北各地で広く行われる予祝芸能の一種で、八戸市における保護団体は八戸地方えんぶり連合協議会。

2月17日の早朝に30組を越える「えんぶり組」が八戸市長者山の長者山新羅神社に詣でた後に同市の商店街で一斉摺りを行い、その後更に近郊農村部を門付けして巡り、20日までの4日間に亘って同市内の各所で演じられる。
現在では観光的要素の大きい行事となっているが、元々は儀礼性の濃い田楽(田植踊)の一種であるとされる。
先端に鳴子板や金輪をつけた「ジャンギ」と呼ばれる棒を持って踊られるが、このジャンギが田植前に田を均すのに用いる柄振・朳(えぶり)という農具に起源も持つものであるために「えんぶり」と呼ばれるようになったと伝えられる。

農作業に活躍した馬の首を象り鶴や亀等の瑞獣を描いた長大な烏帽子を被った3人から5人の「太夫(たゆう)」という踊り手が、笛と太鼓、手平鉦による囃子と祝言風に田作りの情景を唱う歌に合わせて、首を傾け傾けしつつジャンギを地面に突き立てたり地面を摺るようにして勇壮に踊り、編成は太夫を始め囃子方、唄い手など総勢20~30人から成る。

「摺り始め」「中の摺り」「摺り納め」から構成され、各合間に「松の舞」、「恵比須舞(えびすまい)」、「大黒舞(だいこくまい)」等の祝舞(しゅくまい)や、田植えの様を滑稽に演じる「田植万才」、曲芸風の「金輪切」、厚化粧を施された児童(稚児)による「エンコエンコ」等の余興舞が挿入される。
また、踊りは動きがゆっくりとした「ながえんぶり」と拍子の速い「どうさいえんぶり」に二分されるが、途中で「ごいわい唄」が入り、「神酒いただき」のある「ながえんぶり」が古い型であるという。
また、どうさいえんぶりの烏帽子には、「前髪」というテープ状の房がついている。
ながえんぶりの烏帽子には前髪は無く、リーダー「藤九郎(とうくろう)」のものにだけ、ボタンまたはウツギの花がついている。

もともとは旧小正月に行われ、明治維新直後「物乞いに似た行為」として当時の県より一時禁止令が発せられたが、明治14年(1881年)に当時の有力者(大澤多門ら)により八戸町内(当時)の長者山新羅神社の神事として復興された。
その後、同30年からは「えんぶり行列」として同神社の相殿神として祀られていた稲荷大神の神輿渡御式も行われるようになり、同42年には伊勢神宮の2月17日の祈年祭に合わせて現行日に改められた。

八戸地方の予祝芸として芸能史的価値の高いものとして、昭和46年(1971年)11月11日に選択無形民俗文化財とされ、同54年2月3日に重要無形民俗文化財の指定を受けた。

えんぶり


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秋田県護国神社(秋田市) 

秋田県護国神社(あきたけんごこくじんじゃ)は、秋田県秋田市にある神社(護国神社)。
秋田県下の戦没者および伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀る。

明治2年(1869年)、秋田藩主佐竹義堯が戊辰戦争に殉じた官軍戦没者425柱を高清水丘に祀ったのが起源である。明治26年(1893年)に焼失するが、明治32年(1899年)、秋田市千秋公園(久保田城址)に再建され、秋田県出身の軍人・軍属を合祀して秋田招魂社と称した。
昭和14年(1939年)、内務大臣指定護国神社として秋田県護国神社に改称し、翌年、旧秋田城址である現在地に遷座した。
第二次大戦後の一時期、「軍国主義施設」として廃止されるのを防ぐ目的で、鎮座地名に因んで高清水宮と称し、伊弉諾尊・伊弉冉尊を合祀してこちらが主祭神ということにした。
戦後は県に関係した軍人、軍属の霊を合祀している。
現在、ほとんどの戦没者の合祀が完了し、祭神の数は38,000余柱となる。
平成2年(1990年)7月9日、即位の礼に反対する過激派により当社社殿にしかけられた2つの時限爆弾が爆発し、社殿は全焼した(大嘗祭のための神饌を収獲する神田が秋田県内に選定されていたことが関係していると見られている)。
しかし、本殿内に安置されていた神体および霊璽簿は無傷であった。社殿は平成4年9月に再建された。

明治2年(1869年) - 秋田藩主佐竹義堯が戊辰戦争に殉じた官軍戦没者425柱を祀る
明治26年(1893年) - 焼失
明治32年(1899年) - 秋田市千秋公園に再建、秋田招魂社と称する
昭和14年(1939年) - 内務大臣指定護国神社として秋田県護国神社に改称
昭和15年(1940年) - 旧秋田城址に遷座
平成2年(1990年) - 即位の礼に反対する過激派に放火され全焼
平成4年(1992年) - 現在地で再建

秋田県護国神社


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category: 秋田県

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奥州三十三観音霊場(東北地方) 

奥州三十三観音霊場(おうしゅうさんじゅうさんかんのんれいじょう)は、旧陸奥国内(現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県)にある33ヶ所の観音霊場である。「奥州」は陸奥国の別称。
平安時代初期に始まった「奥州古札所」とは別に平安時代後期に設けられ、江戸時代中期に再興された。

平安時代初期の延暦13年(794年)から貞観6年(864年)に生きた円仁(慈覚大師)によって、のちに「奥州古札所」とも呼ばれる三十三観音霊場が開基されたと言う。保安4年(1123年)には既に、この札所巡りが行われていたとされる。
一方、「名取の老女」として知られる「旭」が、平安時代後期の保安年間(1120年 - 1124年)に名取熊野三社(宮城県名取市)を勧請した際に、新たに三十三観音霊場を設定したと言われる(第1番から第3番までの札所は、名取熊野三山の南東に隣接して存在)。これ以降、この新たな札所の方が栄えたが、後に衰微した。
江戸時代中期の宝暦11年(1761年)、第30番札所である補陀寺(宮城県気仙沼市)の智膏和尚を初めとした7人の僧侶により再興され、現在へとつながる札所が定められた。

1那智山紹樂寺(なちさん じょうがくじ)曹洞宗 十一面観音 宮城県名取市高舘吉田
2天苗山秀麓斎(てんみょうざん しゅうろくさい)曹洞宗 聖観音 宮城県名取市高舘吉田
3桑島山金剛寺(そうとうざん こんごうじ)真言宗智山派 十一面観音 宮城県名取市高舘川上
4案狐山斗蔵寺(あんこざん とくらじ)真言宗智山派 千手観音 宮城県角田市小田
5名取千手観音堂(なとりせんじゅかんのんどう)千手観音 宮城県名取市増田
6青龍山瑞巌寺(せいりゅうざん ずいがんじ)臨済宗妙心寺派 聖観音 宮城県宮城郡松島町松島
7富春山大仰寺(ふしゅんざん だいぎょうじ)臨済宗妙心寺派 千手観音 宮城県宮城郡松島町手樽
8兩峯山梅渓寺(りょうほうざん ばいけいじ)曹洞宗 聖観音 宮城県石巻市湊
9無夷山箟峯寺(むいざん こんぽうじ)天台宗 十一面観音 宮城県遠田郡涌谷町箟岳
10大嶽山興福寺(おおだけさん こうふくじ)天台宗 十一面観音 宮城県登米市南方町本郷大嶽
11香積山天王寺(こうしゃくさん てんのうじ)臨済宗妙心寺派 聖観音 福島県福島市飯坂町‎
12大悲山観音寺(だいひざん かんのんじ) 浄土宗 聖観音 福島県伊達郡桑折町万正寺
13明王山大聖寺(みょうおうさん だいしょうじ)真言宗 豊山派 聖観音 福島県伊達郡桑折町上郡
14法輪山大慈寺(ほうりんさん だいじじ)曹洞宗 聖観音 宮城県登米市東和町米川
15竹峯山華足寺(ちくぶざん けそくじ)真言宗 智山派 馬頭観音 宮城県登米市東和町米川
16音羽山清水寺(おとわさん せいすいじ)真言宗 智山派 聖観音 宮城県栗原市栗駒岩ケ崎
17龍雲山大祥寺(りゅううんざん だいしょうじ)曹洞宗 十一面観音 岩手県一関市花泉町老松
18松澤山道慶寺 六角堂(まつざわさん どうけいじ)曹洞宗 如意輪観音 岩手県一関市花泉町老松
19宝持院 新山観音堂(ほうじいん しんざんかんのんどう)十一面観音 岩手県一関市花泉町金沢
20中興山徳壽院(ちゅうこうざん とくじゅいん)曹洞宗 千手観音 岩手県一関市花泉町花泉
21円通山観音寺(えんつうざん かんのんじ)曹洞宗 馬頭観音 宮城県栗原市金成有壁
22楽峰山勝大寺(らくほうざん しょうだいじ)真言宗智山派 十一面観音 宮城県栗原市金成小迫
23太白山長承寺(たいはくさん ちょうしょうじ)曹洞宗 千手観音 宮城県登米市中田町上沼
24遮那山長谷寺(しゃなさん ちょうこくじ)天台宗 十一面観音 宮城県登米市中田町浅水
25妙見山黒石寺(みょうけんさん こくせきじ)天台宗 千手観音 岩手県奥州市水沢区黒石町
26亀峰山長泉寺(きほうざん ちょうせんじ)曹洞宗 千手観音 岩手県一関市大東町大原
27東光山観福寺(とうこうさん かんぷくじ)天台宗 聖観音 岩手県一関市舞川
28大善院 蛸浦観音(だいぜんいん たこうらかんのん)千手観音 岩手県大船渡市赤崎町
29海岸山普門寺(かいがんさん ふもんじ)曹洞宗 聖観音 岩手県陸前高田市米崎町
30白樺山補陀寺(はっかさん ほだじ)曹洞宗 如意輪観音 宮城県気仙沼市古町
31江峰山聖福寺(こうほうざん しょうふくじ)曹洞宗 七面観世音 岩手県八幡平市西根寺田
32北上山正覚院(きたかみさん しょうがくいん)天台宗 十一面観音 岩手県岩手郡岩手町御堂
33八葉山天台寺(はちようざん てんだいじ)天台宗 聖観音 岩手県二戸市浄法寺町御山久保
番外 関山中尊寺(かんざん ちゅうそんじ)天台宗  岩手県西磐井郡平泉町平泉
番外 医王山毛越寺(いおうざん もうつうじ)天台宗 岩手県西磐井郡平泉町
番外 瑠璃光山医王寺(るりこうざん いおうじ)真言宗豊山派 福島県福島市飯坂町平野


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三熊野神社(花巻市) 

熊野神社(くまのじんじゃ)は、岩手県花巻市に鎮座する神社である。
通称三熊野神社(みくまのじんじゃ)。
紀伊国の熊野三山から勧請されたと伝える伊弉冉命、事解男命、速玉男命の3柱を祀る。

社伝に因れば坂上田村麻呂が対蝦夷戦争(蝦夷征討)に際して、征矢立(せいやたて)の森に登って紀伊の熊野三山に戦勝を祈願し、戦勝後の延暦21年(802年)にこの地に三山の神を勧請して創祀したという。
また、康平5年(1062年)に源義家が前九年の役で安倍貞任を追撃した際には鏑矢を奉納して戦勝を祈願し、奥羽平定を叶えたともいう。
中世には和賀氏から社領70石を寄進され、江戸時代になると元和4年(1618年)に南部藩藩主南部利直より社領23石が安堵された。
近世には「熊野権現宮」と呼ばれ、境内に隣接する毘沙門堂(成島毘沙門堂)の鎮守とされ、古くからともに熊野山成島寺(じょうとうじ)を別当としていたが、明治初年(19世紀後葉)の神仏分離で成島寺を廃寺とした際に独立し、毘沙門堂とも分離した。旧社格は村社。

9月19日の例祭に奉納される十二番角力式(じゅうにばんすもうしき)は幼児による「泣き相撲」として知られる角力(相撲)神事で、鎮座地の南を西流する猿ヶ石川を境に南北に分かれる北南両成島集落のそれぞれから長男で数え年2歳の幼児6名宛を力士として選び、本殿脇の土俵上で対面させる。
本殿における例祭の後に土俵へ移り、正面に張った幕の前に宮司や検査役が着座し、南北両成島集落の力士が両親に抱かれて北方、南方それぞれの位置に着座してから開始となる。
所役は両集落から「相撲親方」各1名、「酒番」各1名、「酌立」各2名の計8名と力士12名。
親方役は世襲で紋付、袴に裃を着し、酒番は紋付、袴姿、酌立は過去に角力式を経験した12歳の男子が選ばれる(裃に袴姿)。
親方と酒番は襟に扇子を挿す。

初めに酌立による杯事が7度、5度、3度と3回繰り返される間に親方が「扇取組行事」「手取行事」を行い、それが終わると十二番角力の取組となる。
酒番が親から幼児を抱き取って親方へ渡すと、親方は幼児を抱いて土俵中央に進んで向かい合い、「ヨォヨォ」の掛け声で3度双方の抱く幼児の顔を合わせ、先に泣き出した側を負けとする。
6番の取組が終わると相手を替えて再度6番の取組を行い、都合12番の取組を終えると土俵から四方に餅が撒かれる。
両集落の勝敗は12番を総合して判じ、勝った側の集落には豊作が齎されるという。

本来は作占(豊凶占い)の神事であるが、現在は幼児の成長を祈る意も込められる。
伝えによると、坂上田村麻呂が戦勝の祝宴をこの地で開いた際に両集落の若者に相撲を取らせ、田村麻呂が勝った側の集落に豊作を約束した事に由来する神事であるといい、その後も両集落の青年によって行われて来たが、勝利した集落の豊作が約束されている為に流血を見る場合もあり、宝永3年(1706年)から幼児による泣き相撲に変えられたという。
平成5年(1993年)に花巻市の無形民俗文化財に指定された。
現代になって5月上旬の3日間に毘沙門堂で行われる「毘沙門まつり」においても「全国泣き相撲大会」と称して催されるようになったが、そちらは参加資格を2歳以下の男女とし、全国からの参加者を募るものである。

本殿は桁行3間梁間2間の切妻造平入の身舎前面に桁行3間の吹放ちの庇が接続し、更に庇中央に1間幅の向拝を設ける。
以上、屋根は鉄板葺で庇の屋根は身舎屋根から一続きに葺き下ろす流造の形式は採らずに折れながら接続する形態を採る。
なお、身舎の棟には千木・鰹木を備える。
建築年代は不詳ながら、庇や向拝の虹梁の木鼻に見られる絵様彫刻に室町時代の地方的作風が窺える事からその時代に遡るものと推定され、当時成立したと見られる特異な社殿形態を留めている。
庇と向拝柱との繋ぎとして下端に3箇所の茨(いばら)のあるアーチ状の変形海老虹梁を用いてる点も珍しく、意匠的に見ても優れたものがあり、昭和54年(1979年)に岩手県の有形文化財に指定された。
但しその際の修復で屋根形状の原形を失っている点は惜しまれる。
拝殿は桁行梁間とも3間の入母屋造平入。

成島三熊野神社


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櫛引八幡宮(八戸市) 

櫛引八幡宮(くしひきはちまんぐう)は、青森県八戸市にある神社(八幡宮)である。
旧社格は郷社。境内は「八幡山」と呼ばれ、樹齢100年以上の老杉が立ち並ぶ。
本殿など5棟の社殿が重要文化財に指定され、国宝や重要文化財の甲冑なども境内国宝館において一般公開されている。

仁安元年(1166年)に加賀美遠光が甲州南部庄(現山梨県南部町一帯)に八幡神を勧請して創祀し、緋威の鎧を殿内に納めたという八幡宮に起源を持ち、文治5年(1189年)の奥州合戦で戦功をたてたその息南部光行(南部氏の始祖)が糠部5郡(八戸・三戸・下北・鹿角・下北)の領地を任されて建久2年(1191年)に入部した折に、六戸の瀧ノ沢村に社殿を造営して南部庄から八幡宮を遷座し、さらに貞応元年 (1222年) に櫛引村の現在地に遷座したという。
社伝の『櫛引八幡宮縁起旧記』によれば、瀧ノ沢村への遷座に際しては津島平次郎という家臣が甲州へ遣わされ、同村に仮宮を営んだのも同人であった事から、その子孫である滝沢家が「鍵守」として祭祀に預かるようになったといい、また南部庄八幡宮の別当職であった宥鑁(ゆうばん)という僧も遷座に供奉し、当地に来住して普門院を開創、以後別当寺院として鍵守とともに祭祀を掌ったという。
なお『櫛引八幡縁起』に、櫛引村には大同年間(806-10年)に坂上田村麻呂が創祀したという八幡宮の小社が鎮座していたためにそれと合祀したものともしている。
その後は「櫛引八幡宮」として南部の総鎮守と崇められ、「南部一ノ宮」とも称された。
その後、建武年間に三戸南部家が衰退すると、当時陸奥国の国司代理として下向し、根城を築いた南部師行(根城南部氏4代目)が再興して南部氏の祈願所とした。

旧暦の8月14日から16日の3日間に行われる秋季大祭は最重要の祭儀と位置づけられ、流鏑馬の神事や様々な芸能が奉納される。

○流鏑馬
根城南部氏の師行の再興によって、領内安全・子孫繁昌・武運長久を祈願して奉納されたのが起源であるという。
師行の子孫である根城南部氏10代目の光経が応永18年(1411年)に秋田へ出陣するに際して戦捷を祈願し、八戸へ凱旋すると陣中で着用した具足と着替の2領、長船幸光の太刀、乗馬の青毛と替馬の鹿毛の馬2匹を奉納し、同年8月15日の大祭には盛大な流鏑馬の神事を斎行したと伝え、以後流鏑馬には青毛と鹿毛の馬を駆けさせる定めとなったという。
また、流鏑馬の乗り手を「役者」と称すが、この年からは根城南部氏と共に七戸南部氏も参加するようになり、以来役者を勤める者は三戸、八戸(根城)、七戸の3南部家から出る事となり、その慣例が幕末まで続いた。
かつては、勤仕する役者が神社へ参拝する時には不浄のものを踏まないように高足駄を履いたり、当日の朝は役者が参拝するまでは一般の参詣を許さない等の決まりがあったという。
なお、現在の流鏑馬は明治以後に中絶していたものを、社前に新しく馬場を設けて昭和59年(1984年)11月7日に復興したものである。
また5月14日のお浜入り神事は、神輿が小中野の御前(みさき)神社に渡御する神事であるが、これは神威の再生・更新を図るものであるという。

○国宝
工芸品
赤糸威鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(昭和28年(1953年)11月14日)
鎌倉時代の大鎧。長慶天皇からの拝領と伝えられる。
茜染めの組糸で小札(こざね)を威し(赤糸威)、八重菊枝模様を打出した鍍金金具を兜の鉢・鍬形台・吹返、大袖の裾板、草摺の裾板、鳩尾板(きゅうびのいた)、栴檀板(せんだんのいた)など随所に散らす。
兜は鋲の頭を星に見立てた星兜で眉庇に八重菊枝文の鍬形台と大鍬形が付く。
大袖には籬(まがき)に八重菊枝文の金具の上に「一」の字の飾金物を置くため「菊一文字の鎧」と呼ばれる。
鎌倉時代の金工芸術の最高水準を示し、装飾性の豊かな点で奈良県春日大社所蔵の「赤糸威鎧」(竹に虎金物)と双璧をなすものと唱われる。
天明8年(1788年)の幕府巡見使に随行した古川古松軒は「新羅三郎義光公の甲冑」と紹介している(『東遊雑記』)。
大正4年(1915年)3月26日に古社寺保存法に基づき当時の国宝(旧国宝、現行法の重要文化財に相当)に指定。
昭和28年に文化財保護法に基づく国宝に指定された。
白糸威褄取(つまどり)鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(昭和28年11月14日)
南北朝時代の大鎧。
南北朝時代を代表する鎧であるとされ、白糸を卯の花に見立て、「卯の花威(うのはなおどし)」と呼ばれている。
草摺と大袖の隅の部分を紫、薄紫、黄、萌黄、紅の色糸で褄取りに威す。
兜は鋲の頭を星に見立てた星兜で、兜鉢の前後左右に鍍銀の板金を伏せた四方白(しほうじろ)とする。
鍬形を欠くものの鉢正面の鎬垂(しのだれ)に堂々とした風格を示す。
応永18年に南部光経が奉納した2領の中の1領といい、光経の父信光が後村上天皇から拝領したものと伝えられる。「祭祀節」の「流鏑馬」項も参照)。
赤絲威鎧同様、大正4年古社寺保存法に基づく旧国宝に、昭和28年、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。

櫛引八幡宮


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善知鳥神社(青森市) 

善知鳥神社(うとうじんじゃ)は、青森県青森市安方にある神社である。旧社格は県社。

善知鳥神社は現在の青森市が昔、善知鳥村と言われた頃、奥州陸奥之国外ヶ浜鎮護の神として、第十九代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の御世に日本の国の総主祭神である天照坐皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)の御子の三女神を、善知鳥中納言安方が此の北国の夷人山海の悪鬼を誅罰平定して此の地を治め、その神願霊現あらたかな神々を祭った事に由来している。
また、坂上田村麻呂の東北遠征の大同二年(807)に再建された。

天照大御神様(あまてらすおおみかみ)と速須佐之男命(すさのおのみこと)との誓約(うけい)によって生まれた神々。
『日本書紀』によると大御神が三女神に、道中にあって天孫(天皇)をお助けし、天孫の祭りを受けなさいとの言葉を下されたとある。
別名「道主貴」(みちぬしのむち)と呼ばれ、道中安全(交通安全・海上守護等)の神として篤い信仰がある。

善知鳥神社


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