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日々明々

東北の人・建物・文化などご紹介しております。。。ご当地物も紹介しておりますので是非、ご利用ください。。。


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福島県 食文化 

粟饅頭(あわまんじゅう)
福島県河沼郡柳津町の菓子。
粟と餅米を混ぜた生地にこしあんを包んで蒸した饅頭。色は粟をイメージした黄色で、粟のつぶつぶした感触と、餅の粘りを持ち合せた独特の食感が特徴。
基本的に手作りで、店頭では職人がおちょこのような型に詰めて作っている光景が見られることもある。福島の物産展では定番商品の一つとなっているが、手作りのため製造に時間がかかり、必ずといっていい程行列ができる。
また賞味期限が短く、2日も経つと硬くなってしまう。長期保存する場合は冷凍する必要がある。


いかにんじん
いかにんじんとは、福島県北部の郷土料理である。
いかにんじん(昆布入り)
スルメとニンジンを細切りにし、醤油、日本酒、みりんなどで味付けする。各家庭で主に晩秋から冬にかけて作られ、おつまみ、おかずとして親しまれている。


薄皮饅頭
薄皮饅頭(うすかわまんじゅう)は、福島県郡山市の土産菓子。甘い饅頭で、名前の通り黒糖を使った薄い皮で包んでいることが特徴である。
柏屋の当主である初代本名善兵衛(ほんなぜんべえ)が考案したとされる。江戸時代の奥州街道の郡山宿で薄皮茶屋という店を開き、主に旅人相手に販売した。当初はこしあんを用いたものであったが、現在は好みの変化もあり、粒餡も用いている。


五百川 (米)
五百川(ごひゃくがわ)は、イネの品種の一。
2003年、福島県中通り地域の農家、鈴木清和が、コシヒカリの突然変異種として発見[1]。7年間の育種を経て2010年より品種登録され、福島県中通り地域を中心に作付けが行われている。命名は当地を流れる河川、五百川から。
極早生の品種で、8月下旬には早場米として収穫可能である。草丈が短く、耐倒性に優れているほか、耐冷性にも優れる。食味はコシヒカリのそれを継ぎ、良好である。


しんごろう
しんごろうとは、福島県南会津郡南会津町と下郷町に伝わる郷土料理。
うるち米を半つきにして竹串に刺し、味噌にすりつぶしたエゴマなどを混ぜ合わせたじゅうねん味噌を塗って炭火で焼いたもの。
しんごろうという名前は、この料理を生み出した「新五郎」という人名から付けられている。貧乏でもち米が買えない新五郎が、うるち米を丸めて丸めたものにじゅうねん味噌を塗って焼いた。それが非常に美味しかった事から村中で評判となり、この地方の郷土料理となったという。


エキソンパイ
エキソンパイは、福島県郡山市の三万石が販売している土産菓子。
くるみ入りの餡をパイ皮で包んだ、欧風の饅頭菓子。土産菓子の定番でもあり、ままどおるとセットで販売されることも多い。
1960年(昭和35年)の発売以来ロングセラーを記録しており、現在ではままどおると並んで三万石を代表する菓子の一つとなっている。

ままどおる
ままどおるは、バターのたっぷり入ったミルク味の餡を生地で包み焼き上げた土産菓子。
「ままどおる」とはスペイン語で"お乳を飲む人々"の意味。 製造は、福島県郡山市にある三万石。姉妹品にチョコ味の「チョコままどおる」がある。 「チョコままどおる」は期間限定(10月〜5月)販売である。
購入できる場所が基本的に福島県内、あるいは福島県近辺の高速道路内売店などに限られているため、福島県民が県外に出向く際の土産品として人気が高い。



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羽鳥ダム(羽鳥湖) 

羽鳥ダム(はとりダム)は福島県岩瀬郡天栄村大字羽鳥、一級河川・阿賀野川水系鶴沼川に建設されたダムである。
農林水産省東北農政局が管理する農林水産省直轄ダムで、阿武隈川流域の白河地域におけるかんがいを目的としたダムである。
堤高37.1mのアースダムで、アースダムの規模としては全国屈指である。
ダムによって形成された人造湖は羽鳥湖(はとりこ)と呼ばれ、周辺地域がリゾート地域として開発されたこともあり、ダムよりも有名となっている。
2005年(平成17年)には天栄村の推薦で財団法人ダム水源地環境整備センターが選定する「ダム湖百選」に選ばれている。

福島県中部を貫流する阿武隈川は福島市・郡山市・白河市・二本松市といった福島県の中核都市を流域に持つが、流域は必ずしも穀倉地帯とはいえなかった。
江戸時代には石高10万石以下の小藩がひしめき、流域の新田開発はなかなか進捗しなかった。
これは阿武隈川より離れた地域は水の便が悪く、さらに阿武隈川自体も流域面積(1,865.2平方キロメートル)の割には平均流量が少なく(毎秒52.07トン)、少雨の際には容易にかんばつの被害を招きやすかった。
このため、阿武隈川の平均流量より約8倍(毎秒395.86トン)の豊富な流量を有する阿賀野川(福島県内では阿賀川と呼称される)から取水することが考えられた。

明治時代に入り、猪苗代湖を水源とした安積疏水が1882年(明治15年)に完成し不毛の土地であった安積原野が開墾されたことから、阿賀野川水系を利用した新規農地開拓に弾みが付き、同じく水源確保に難渋していた白河・矢吹地域への開拓を促進するため1941年(昭和16年)より国直轄事業として「国営白河矢吹開拓建設事業」が策定された。
阿賀野川水系より流域変更を行って阿武隈川水系への農業用水供給を図るため、その水源として計画されたのが羽鳥ダムである。

ダムによって出来た羽鳥湖は、アースダムの中で現在でも屈指の規模を誇っている。
現在既設のアースダムでは湛水面積と総貯水容量において日本一であり、宮城県で現在建設が進められている長沼ダムが完成すると二位になる。
羽鳥湖は周辺がリゾート地域として早くから開発が行われている。
夏は羽鳥湖畔オートキャンプ場や羽鳥湖高原レジーナの森キャンプ場といったキャンプ場、冬はグランディ羽鳥湖スキー場といったレジャー施設、太平洋クラブのゴルフ場があり、多くの観光客が訪れる。
秋は紅葉の名所である他、冬は湖面が結氷する。
下流には湯野上温泉や大内宿もあり、南会津地域の観光地として賑わいを見せる。
しかし、湖底には57戸の集落が沈んでおり、白河地域の開発のために故郷を離れた約300名の住民の労苦を偲ばせる


羽鳥ダム・羽鳥湖へは白河方面からは東北自動車道・白河インターチェンジより国道4号経由で福島県道37号白河羽鳥線を北上するか、あるいは矢吹インターチェンジより福島県道58号矢吹天栄線経由で国道294号(茨城街道)・天栄バイパスに入り、国道118号に進むと到着する。
一方会津若松・鬼怒川温泉方面からは国道121号より国道118号に入り、羽鳥湖・天栄方面へ進むと到着する。
公共交通機関では会津鉄道・湯野上温泉駅が最寄の下車駅となる。

羽鳥湖


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大内宿 

大内宿(標準語・共通語:おおうちじゅく)、会津弁:おおちじゅく)は、福島県南会津郡下郷町大字大内にある旧宿場。
重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

南会津の山中にあり、全長約450mの往還の両側に、道に妻を向けた寄棟造の民家が建ち並ぶ。
江戸時代には「半農半宿」の宿場であったが、現在でもその雰囲気をよく残し、田園の中の旧街道沿いに茅葺き民家の街割りが整然と並ぶ。
大内宿本陣跡には、下郷町町並み展示館がある。
民宿や土産物屋、蕎麦屋などが多数立ち並ぶ。
特に蕎麦に関しては、高遠そばの名で知られており、箸の代わりにネギを用いて蕎麦を食べる風習がある。

○「半農半宿」期
復元された本陣。
下郷町町並み展示館として利用されている(2006年7月)
江戸時代に会津西街道(別名:下野街道、南山通り)の宿場として、寛永20年(1643年)頃に開かれ、盆地内を北北東から南南西に貫く街道に沿って整然とした屋敷割の街並みが形作られた。
同街道は、会津藩・若松城(会津若松市追手町)を出ると、福永宿(会津美里町氷玉福永)、関山宿(会津美里町氷玉関山)を経て山岳地に入り、氷玉峠および大内峠を越えて大内宿に入った。
大内宿からは中山峠を越えて倉谷宿に入り、日光街道・今市宿(栃木県日光市今市)へと至った。
若松城から江戸までは61里、5泊6日ほどの旅程であるが、若松から5里の距離にある大内宿には本陣や脇本陣が設置され、会津藩の参勤交代や迴米の集散地として重要な駅となった。
延宝8年(1680年)、江戸幕府が参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになったため、正保元年(1644年)から同年まで計21回あった大内宿を通る会津藩の参勤交代は途絶え、白河藩・白河城下町経由の白河街道にシフトした。
すると、会津西街道は中附駑者(なかづけどじゃ)と呼ばれる流通業者が主に使用する街道となったが、3年後の天和3年9月1日(1683年10月20日)の日光地震によって戸板山(現・葛老山。地図)が一部崩壊し、五十里宿(いかりじゅく)および周辺の街道が堰止湖に水没。
会津藩は会津西街道の機能不全を回復しようとしたが、代替路として新規開通した会津中街道に物流はシフトしてしまった。
40年後の享保8年(1723年9月9日)、大雨によって堰止湖が決壊すると会津西街道は復旧したが、既に定着した代替路や新たな脇街道との間で物流の競争を余儀なくされた。
そのため大内宿は、純粋な宿場町ではなく「半農半宿」の様相であったと考えられている。
慶応4年/明治元年(1868年)の会津戦争(戊辰戦争)で大内村も戦場となったが、宿場は戦禍を逃れた。
明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県で若松県下となったが、1876年(明治9年)8月21日に同県が福島県と合併したため、大内村は福島県下になった。
なお、1878年(明治11年)にイザベラ・バードが大内宿の美濃屋に宿泊しているが、一行が会津若松方面に向かう際には会津西街道沿いの大内峠を選択せず、市野峠を越える道を選んでいる。

○純農村期
1882年(明治15年)に福島県令となった三島通庸による会津三方道路の工事により、1884年(明治17年)には会津西街道が当地の東の小野岳を越えた大川(阿賀野川水系阿賀川の別名)沿いに付け替えとなって日光街道と改称した。
新街道から外れた大内宿では、1886年(明治19年)に宿場内の旧街道中央を流れていた用水路を2つに分けて両側に移し、街道の道幅を広げたりしたものの、賑わいは次第に失われていった。
1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴って大内村は周辺の村と合併し、楢原村となった。
日本鉄道(現・JR東北本線)と接続する岩越鉄道(現・JR磐越西線)が1899年(明治32年)に若松駅(現・会津若松駅)まで開通すると、会津と関東との間の物流は南会津を通らなくなり、さらに1927年(昭和2年)より大川沿いに順次延伸開業していった会津線によって、大内宿の宿駅としての地位は完全に失われた。

○近代化
1946年(昭和21年)11月20日、楢原村は町制施行して楢原町となるが、この年に当地にも電気が引かれ、ランプから電灯での生活に変化した。
1955年(昭和30年)4月1日には楢原町・旭田村・江川村が合併して下郷町が成立。
日本で高度経済成長が始まると、当地にも昭和30年代半ばにはテレビや耕運機を手に入れる世帯が見られ、昭和40年代になると簡易水道が引かれて近代化の波が押し寄せ始めた。
昭和40年代初頭から外部の研究者らが当地の生活調査や建築物調査などで盛んに来訪するようになると、当地の旧宿場の街並みが再評価され、また、その街並みは住民の生活習慣や互助組織に支えられていることが判明した。
その一方、当地は近代化から取り残されて昔のままの生活が営まれているとも評価され、外部の研究者らが街並みの保存活動を始めた。
1969年(昭和44年)6月26日の朝日新聞記事で当地が紹介されたことに端を発し、連日のようにマスメディア・研究者・観光客が当地に詰め掛け、1970年(昭和45年)放送のNHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』のロケーション撮影も行われて注目を浴び、同年、外部の研究者らが下郷町や文化庁に旧宿場の保存を訴えた。
このとき一部のマスメディアが、超高層ビルも建ち始めた都市部と比較して、当地が貧乏であるから茅葺屋根の家に住んでいる等と報道したため、住民は茅葺屋根の家に住むのをためらうようになり、住民による保存活動は盛り上がらなかった。

1976年度(昭和51年度)撮影の国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。
近代化によって、旧街道沿いの民家に赤や青のトタン屋根が目立つようになった。
県道下郷会津本郷線大内工区は未着工。
周辺農地も圃場整備実施前。
当地の近くで、1971年(昭和46年)より大川ダム、1974年(昭和49年)より大内ダムの建設が始まると、住民はダムの補償金や建設工事の従業収入を得。
また、農業などの第一次産業中心の生活から、通勤して第二次産業・第三次産業で現金収入を得る暮らしへと転換するようになった。
1975年(昭和50年)の文化財保護法改正によって重要伝統的建造物群保存地区制度が導入されたため、福島県は大内地区に保存地区選定申請を打診したものの、住民は生活の近代化を望んで拒否、旧街道は舗装され、新たに得た収入をもとに茅葺屋根をトタン屋根に葺き替えたり、台所・風呂・トイレの近代化をしたり、家屋の増改築をしたりするようになった。

○観光地化
茅葺屋根の駅舎に建て替えられた湯野上温泉駅
1970年代の2度のオイルショックを経て日本は安定成長期に入り、一億総中流が定着した。
1980年(昭和55年)7月12日、「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定。
同条例に基づき決定された伝統的建造物群保存地区は1981年(昭和56年)4月18日、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。
旧宿場としては長野県の妻籠宿および奈良井宿に続いて全国で3番目の選定である。
同年5月14日には「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例施行規則」も制定された。
同年9月、「大内宿保存会」が設立されて住民による町並み保存活動が始まり、「大内宿を守る住民憲章」も制定された
1984年(昭和59年)9月5日には、旧本陣を復元した建物に「下郷町町並み展示館」(大内宿町並み展示館)が開館した。
積雪期に観光客が減少する対策として、1986年(昭和61年)より2月に「大内宿雪まつり」を開催するようになった。
大内宿最寄りの会津線・湯野上温泉駅が、国鉄分割民営化に伴って1987年(昭和62年)4月1日に日本国有鉄道から東日本旅客鉄道に、さらに同年7月16日に会津鉄道(第三セクター鉄道)に承継されたが、このとき同駅舎も茅葺屋根に建て替えられ、同年12月19日に完成した。

○子安観音堂付近から見た大内宿(2006年7月)
並行して、1982年(昭和57年)から1988年(昭和63年)にかけて旧宿場に沿って道路の新設が行われ、1989年(平成元年)から翌年にかけて電柱・電話柱・テレビ共同受信柱・地区有線放送柱を新設道路に移設し、「裏配線」により旧街道の無電柱化を実現した。
その後、旧街道のアスファルト舗装を撤去して土の道を復元したり、観光駐車場を新設したりして環境整備をした。
すると1992年(平成4年)、第1回「美しい日本のむら景観コンテスト」の文化部門で、農林水産大臣賞を受賞した。
1996年(平成8年)には「大内宿の自然用水」として「日本の音風景100選」に選定。
1998年(平成10年)には「大内宿結いの会」が結成され、住民による茅葺屋根の復元や葺き替え技術の伝承が開始された。
2004年(平成16年)には「美しい日本の歩きたくなるみち500選」、2005年(平成17年)には「手づくり郷土賞」(大賞部門)を受賞し、「知っていそうで知らない日本の文化の発見」として「わたしの旅100選」にも選定された。
観光客数は、1985年(昭和60年)に約2万人であったが、バブル景気が始まると急増し、1990年(平成2年)10月12日に会津鉄道が野岩鉄道会津鬼怒川線および東武鉄道鬼怒川線・日光線・伊勢崎線との直通運転を開始すると、翌1991年(平成3年)には50万人を突破した。
その後は年間50万人前後で推移していたが、1997年(平成9年)に磐越自動車道が全線開通すると60万人を超えた。2003年(平成15年)に県道下郷会津本郷線氷玉バイパス(大内宿こぶしライン)が開通すると翌2004年(平成16年)には80万人を超え、2005年(平成17年)のあいづデスティネーションキャンペーンで様々にPRされると2006年(平成18年)には90万人、2007年(平成19年)には100万人を突破し、県外からの観光客が90%を占める県内有数の観光地となった。
観光客の増加に伴い、周辺道路に渋滞が発生するようになったため、2009年(平成21年)2月23日に「大内宿周辺地域渋滞対策協議会」が設立された。

大内宿の街並み

大内宿本陣


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tag: 福島県  歴史  萱葺  蕎麦 
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甲子温泉 

甲子温泉(かしおんせん)は、福島県西白河郡西郷村(旧国陸奥国、明治以降は磐城国)にある温泉

国道289号から谷底へ細い道を下った先に、一軒宿の「大黒屋」が存在。足元湧出の混浴大岩風呂が有名である。
2009年に新築し冬も営業になった。
大黒屋の駐車場を抜けた先は甲子岳へ向かう登山道となっている。
この登山道はかつて国道289号の未成区間(西郷村-下郷町間の6.9km)だったが、全国に散在する同様の区間の中で唯一国道標識が立てられていたため、酷道マニアの間では「登山道国道」として有名であった。
現在は並行する甲子道路の開通に伴い国道の指定から外れ、標識も撤去されている。

1384年に州安和尚によって発見されたといわれる。
1384年が甲子年であったことから、温泉の名称がそれに因んで甲子温泉となった。
江戸時代になってから、元会津藩の浪人によって温泉宿が開かれた。
松平定信もこの湯を好み、この地に別荘を築いた。

甲子温泉



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tag: 福島    掛け流し  歴史  温泉  松平定信 
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若松城 

若松城(わかまつじょう)は、福島会津若松市追手町1-1にあったである。
地元では一般的に鶴ヶ(つるがじょう)といい、地元以外では会津若松城と呼ばれることも多い。
文献史上では黒川(くろかわじょう)、会津とされることもある。
国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。

若松城は旧市街地の南端に位置し、郭内(武家屋敷)と町屋敷が外濠で隔てられ、さらに郭内の内側に内濠を有する梯郭式の平山城である。
城跡は都市公園鶴ヶ城公園となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されている。
史跡外の三ノ丸跡には陸上競技場、市営プールおよび福島県立博物館がある。
また、再建された天守は若松城天守閣郷土博物館として利用されている。

1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。
諸説あるが、おそくとも15世紀半ばまでには黒川城(くろかわじょう)、(または小高木城)とその城下が成立していた。
以後、代々蘆名氏の城であった。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。
1589年(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。
しかし、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。

代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。
氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。
なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。
1593年(文禄2年)、望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。近年の発掘調査で蒲生時代の石垣の基底部が確認され、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土している。
1598年(慶長3年)、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。
1600年(慶長5年)、徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。
翌1601年(慶長6年)には蒲生秀行が再び入城したが、1627年(寛永4年)、嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。
代わって伊予松山より加藤嘉明が入封。子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、1611年(慶長16年)に起きた会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組みなおさせている。
1643年(寛永20年)、加藤明成は改易され、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。
以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。
1868年(慶応4年)、戊辰戦争の際には会津戦争にて、会津勢の立て篭もる若松城は1か月の間持ちこたえ、板垣退助勢に、薩摩の援軍の助けをかりても遂に城は落ちなかったが、その後開城された。
戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置されたまま破却を迎えている。

現在の復元天守棟上には鯱があげられているが、明治初年の古写真には鯱が確認できていない。
これを理由に、2010年(平成22年)からの改修工事にあわせて、取り外すべきだという意見があった。
一方、江戸時代の絵図には鯱が描かれているものもあり、正確なところはわからないというのが実情である。
この鯱は、復元工事を担当したハザマの当時の会長より寄贈されたもので、全身の鱗は銀箔、牙は金製、瞳の中心に2カラットのダイヤモンドが埋め込まれている。
同社は名古屋城天守の復元工事も受け持っており、名古屋城の金鯱と対になるように、銀鯱とした。金閣寺、銀閣寺に倣ったものである。
また、名古屋城復元では、金鯱の瞳にもダイヤモンドを埋め込もうとしたが、市民の猛反発を受けて断念した。
会津若松城のものは完全に寄贈品であるので、反対は起きなかった。

会津若松城


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大塩温泉 (福島県) 

大塩温泉(おおしおおんせん)は、福島県大沼郡金山町(旧国陸奥国、明治以降は岩代国)にある温泉
同名の温泉が、長野県上田市にもある。
また、福島県耶麻郡北塩原村には大塩裏磐梯温泉が存在する。

只見川と国道252号の間に温泉地が広がる。
鄙びた温泉地であり、旅館、民宿は2軒存在する。
共同浴場は1軒存在する。
また、只見川沿いには春先のみ温泉が湧出する野湯がある。
この湯船は昔は共同浴場として利用されていたが、ダム開発により河岸が近づくことから、取り壊すはずだったもの。
また、常に整備されているわけではないので、場合によっては入浴前に清掃を行う必要がある。
また、ダム湖のそばの崖沿いにあり、転落などの恐れもあって危険であり、入浴の際には十分注意する必要がある。
温泉地の近くには、炭酸水を汲むことができる井戸がある。
この炭酸水はかつて輸出もされていた。現在は炭酸水をボトリングする工場が井戸近くに存在する。

開湯伝説によれば、弘法大師の発見とされる。
戦後は当地で行われた開発に翻弄されている。
1955年、本名ダム建設により、只見川沿いにあった温泉は水没し、現在地に移転した。
他にダム開発により水没した温泉地は、日中温泉、鶴の湯温泉、入之波温泉、大牧温泉、猿ヶ京温泉などがある。
1967年、近隣で行われた鉱山開発により湯温低下。現在の温度となっている。
以来入浴用に加温を行うようになっている。

○泉質
含二酸化炭素-ナトリウム-塩化物・炭酸水素塩泉
源泉温度38℃
源泉は湯船で青白く濁る
炭酸水素イオン含有量2856mg
炭酸成分が日本でも有数の多さであるのが特徴。

大塩温泉(福島県)


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tag: 福島  温泉  露天  掛け流し  歴史 
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白河小峰城 

白河小峰城(しらかわこみねじょう)は、福島県白河市(陸奥国白河郡白河)にあった城。
単に白河城または小峰城ともいう。
国の史跡に指定されているほか、日本100名城のひとつにも数えられる。

阿武隈川と谷津田川の間に位置する、小峰ヶ岡という丘陵にあった平山城である。
東北地方では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、若松城とともに「東北三名城」のひとつにも数えられている。
周辺は城山公園として整備され、公園内には、結城氏や阿部氏に関する資料を展示した「白河集古苑」や「白河バラ園」(6月のみ営業)がある。
2011年3月11日に発生した東日本大震災により石垣等が崩壊したため、三重櫓も含め本丸は立入禁止となっている(2011年9月現在)。

○近代以前
白河小峰城は、南北朝時代の1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)に、結城親朝が小峰ヶ岡に築城して小峰城と名づけたのが始まりとされる。
1590年(天正18年) 城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易されると、その後、この地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度、蒲生氏が支配した。
1627年(寛永4年) 丹羽長重が10万石で棚倉城(福島県棚倉町)から移封され、幕命により、寛永6年より城郭の大改築に着手、4年の歳月を費やして1632年(寛永9年)に完成した。
その後丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と7家21代の城主の交代があったが1867年(慶応3年)最後の阿部氏が棚倉に移封された後、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなる。
1868年(慶応4年)、白河小峰城は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、5月1日、大半を焼失し落城した。
近現代 [編集]
城跡には曲輪・土塁・石垣・水堀を残すのみだったが、1991年(平成3年)に本丸跡に三重櫓(天守に相当)が、1994年(平成6年)に前御門が当時の史料に基づいて復元された。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(13番)に選定された。


○石垣崩壊の様子
東日本大震災での被害
2011年3月11日に発生した東日本大震災により、三重櫓の崩壊には至らなかったものの数箇所の石垣・曲輪が崩壊、または積み重ねがゆるむ被害があった。
曲輪上にあった白河バラ園や公園・石碑等も崩壊し、震災以後は本丸への立ち入り禁止となっている。
特に三重櫓下段の曲輪の崩壊被害は大きく、小峰城入口からも確認できる。
このほか、公園内売店は一部損傷があったが、城壁前方の芝生や城内に植えられていた桜はおおむね被害は無かった。
2011年秋から修復工事が行われているが、完全な復旧には5年程かかる見込みである。

○御三階櫓
白河小峰城の御三階櫓は1632年(寛永9年) に建てられた複合式層塔型3重3階の櫓で、当時は「三重御櫓」と呼ばれた実質的な天守であった。
三重櫓の建つ櫓台に余裕を持たせ付櫓や2階に出窓を付けた姿は、若松城天守に共通する。
黒漆塗りの下見板張りで、風雨にさらされることを考慮して窓を小さく開いている。
この三重櫓は、1868年に起こった戊辰戦争によって焼失し、現在のものは1991年に復元されたものである。
復元天守は昭和期に多数造られたが、それらはみな鉄筋コンクリート造ので、外観のみ元に復したもの(外観復元)であった。
白河城の三重櫓は木造復元された城郭建築のうち、天守に相当する建物の復元では最初のもので、数少ない木造復元天守の一つである。
戊辰戦争の激戦地となった松並稲荷山の杉を使って復元をしており、中に入り柱をみると弾傷が確認できる。
大規模な木造建築は日本では建築基準法で原則禁止されているが、白河城では人の立ち入りを想定しない工作物として建築許可を得たのち、完成後に見学者を内部に入れるよう変更した。これは一種の「脱法行為」であるとの観点から問題となったが、後に問題なく立ち入れるようになった。

○現存建造物
多くの城内の建造物が焼失または破却により失われたが、二の丸入口付近の太鼓門西側に建てられていた太鼓櫓は1873年(明治6年)に民間に払い下げられ、三の丸の紅葉土手に移築された後、1930年(昭和5年)に現在地に移築され、現在は茶室として利用されている。2度の移築により、建物そのものは改造され原型は大きく損なわれているが、当時の面影を今に伝える唯一の建物遺構である。
2010年(平成22年)8月5日、国の史跡に指定された。

○伝説
おとめ桜の伝説
寛永年間に城の大改修を行った際、本丸の石垣が何度も崩壊したため、人柱を立てることになり、人柱にするのはその日、最初に城に来た者ということに決まった。
すると、最初に来たのは作事奉行の娘「おとめ」だった。
父は必死に「来るな」と手で合図をしたが、逆に「来い」という合図と勘違いしたおとめは人柱にされてしまった。
その後、石垣は無事完成し、おとめが埋められた場所には桜の木が植えられ「おとめ桜」と呼ばれるようになったという。

白河小峰城



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福島県 

福島県(ふくしまけん)は、東北地方南部(南東北)にある県。
県庁所在地は福島市。太平洋に面し、奥羽山脈の東西にまたがって存在する。

地形・気候・交通・歴史などの面から、太平洋と阿武隈高地に挟まれた「浜通り」、阿武隈高地と奥羽山脈に挟まれた「中通り」、奥羽山脈と越後山脈に挟まれた「会津」の3地域に分けられる。
現在の福島県は、1876年8月21日に磐前県(いわさきけん。浜通り)と福島県(1876年以前)(中通り)と若松県(会津)の3県の合併によって成立した。

県の広域行政単位は、これらをさらに細分している。
方言単位は、上記3区分の他に、3区分横断的な南北分類もされる(関東方言の影響が県南部で見られるため)。
人口の大きな自治体は、人口順にいわき市、郡山市、福島市となっているが、3市とも30万人前後である。商業統計では郡山市・福島市・いわき市の順、都市圏人口では郡山都市圏、福島都市圏、いわき都市圏の順である。
3市はそれぞれの分野に特化し、行政機能が集中する福島市、経済・交通の中枢で商業・内陸工業・流通都市となっている郡山市、広大な面積を持ち工業・観光に特化するいわき市となっている。
また、会津地方の中心都市で史跡旧跡が多く存在する歴史都市会津若松市も上記3都市に比べ小規模ながら重要な地点となっている。
県名の福島は、福島城から採られた。

福島県を含む北関東・東北地方における人の足跡は、後期旧石器時代に始まる。
県域における遺跡としては平林遺跡(桑折町)や会津若松湊の笹山原遺跡群がある。
この遺跡から旧石器時代人が製作し使用したとみられる石器群が発見されている。年代は約2万2000年前の AT よりも下から出土していることから、後期旧石器時代前半に属する。
少しくだって約1万5000年前の塩坪遺跡(喜多方市高郷町)から熱を受けた139個のこぶし大の石がまとまって発見された。
この時代はまだ土器がなく、焼石は食材を直接加熱するのに使用されたのであろう。


○東北地方最大の前方後方墳・大安場古墳
縄文時代・弥生時代を経て古墳時代に入るが、福島県は大型の古墳が少ない東北地方にあって大安場古墳(郡山市、前方後方墳、全長約 83m)、会津大塚山古墳(会津若松市、前方後円墳、114m 、4世紀後半、東北最古級、割竹形木棺検出、三角縁神獣鏡出土)、亀ヶ森・鎮守森古墳(会津坂下町、前方後円墳、127m)などの大型の古墳が集積する。
古墳時代、畿内に前方後円墳が登場するのとほぼ同時期に会津地方でも前方後円墳が作られ始めており、すでに大和朝廷の影響下にあったことが窺える。
古墳時代中期以降は、会津地方の古墳造営が減少し、代わって中通りで盛んに古墳が作られた。
中通り地方の前方後方墳は隣接する那須地方(那須国造)で盛んに築造された前方後方墳の影響を受けたと考えられている。

○古代
5世紀にはすでに北関東・東北の一部までがヤマト王権の影響下にあったと思われ、福島県域においても各国に国造が成立した。
当初、大和朝廷の勢力圏は福島県域が北限であり、蝦夷勢力圏との境界に当たる信夫国(福島盆地)などの国には防備の任もあった。
また、関東や近畿地方などから、盛んに開拓のための移民も行われている。
その後、国は評(こおり)と呼び名が代わり、陸奥国に再編された。
また、大和朝廷の勢力圏も宮城県域、あるいはさらに北に拡大し、信夫評(しのぶごおり)も「北端」ではなくなった。
701年(大宝元年)の大宝律令の施行時には陸奥国となり、評は郡、評司(国造)は郡司になった。
拡大した陸奥国から718年(養老2年)に石城国と石背国が分置された。

石城国 - 菊多郡、石城郡、標葉郡(しねはぐん or しめはぐん)、行方郡(なめかたぐん)、宇太郡、曰理郡(わたりぐん)の6郡
石背国(いわせのくに) - 信夫郡、安積郡、石背郡、白河郡、会津郡の5郡
現福島県域は石城国または石背国に属することとなり、陸奥国の領域ではなくなった。
分置後も蝦夷との戦いが続き、東北全体(陸奥・出羽)で戦う必要性起こってきたので、724年(神亀元年)までには石城国と石背国は再び陸奥国に合併された。
これらの郡は、その後、人口の増加などにより、さらに再分割されている。
例えば信夫郡から伊達郡が分割され、安積郡からは安達郡などが分割され、会津郡も耶麻郡を始め多くの郡に分割された。


○白水阿弥陀堂(国宝)
現在、福島県域は岩盤が固くて地震が少ないから「岩代国」と呼ぶ、という説があるが、これは「岩」という文字のイメージから生まれた俗説である。
岩代国の由来は石背国にある。
石背国の読み方は本来「いわせ」であったが、後に山背を「やましろ」と読むのに習って「いわしろ」とも読むようになったと思われる。
明治旧国名では「いわしろ」の読みを採用し、「岩代」の文字を当てた。

平安時代には会津で恵日寺が強大な勢力を得たが、平安時代末期にはほぼ福島県全域が奥州藤原氏の勢力下に入り、藤原氏一族の信夫佐藤氏が福島盆地を本拠地として、中通りの中部まで、恵日寺後退後の会津、山形県置賜地方まで支配するまでになった。
平安末期、福島県内で他には中通りの石川氏、浜通りの岩城氏があった。
石川氏は清和源氏の流れで前九年の役に従軍して石川郡に定住した。
岩城氏は桓武平家の氏族で、藤原清衡の養女を妻に迎えて石城郡に定住したとも石城郡司の子孫とも言われる。
国宝白水阿弥陀堂は平安時代末期1160年(永暦元年)に岩城則道の菩提を弔うために建立されたものである。


○鎌倉開府から戦国時代まで

相馬野馬追
中世においては源頼朝が鎌倉に幕府を開府し東国において自立するが、頼朝は東北において奥州征伐により奥州藤原氏を滅ぼす。
県域においては信夫佐藤氏が信夫荘(信夫郡の西北、松川以北)に押し込められると、鎌倉による論功行賞で福島県内は伊達氏、相馬氏、二階堂氏、蘆名氏、畠山氏、結城氏など、多数の関東武士団に細分化された。南北朝の動乱においては結城氏の一族である白河結城氏が台頭し、白河結城氏を主力とする南朝方が大いに優勢となったが、しばらくすると相馬氏など北朝方が盛り返し、白河結城氏など多くの諸氏は奥州管領や鎌倉公方の支配を受けるようになる。
戦国時代に北関東・東北においては一国以上の領国を持つ戦国大名は少なく中小の地域勢力が分立する傾向をもっているが、伊達氏は伊達稙宗が南奥羽で外征や婚姻外交を繰り返し南奥羽のほとんど大名が勢力下に入るが天文の乱を起こし衰退したり、白河結城氏が衰退し代わって岩城氏が勢力を盛り返すなど、栄枯盛衰は止むことはなく、隣接する常陸国佐竹氏や越後国上杉氏の影響も受けるようになるが、最終的には蘆名氏や相馬氏、二本松氏などを圧倒した伊達氏の伊達政宗が短期間ではあるが、福島県域の浜通りを除く大半を領有することになる。
相馬野馬追は、相馬氏の遠祖・平将門が領内の下総国相馬郡小金原(現在の流山から松戸に広がる地域)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われている1000年以上の歴史を持つ神事である。


○天正政府と徳川藩政時代

重要伝統的建造物群保存地区
大内宿

若松城(鶴ヶ城)

白河小峰城


○本丸お堀がきれいに残る棚倉城跡
豊臣秀吉による奥州仕置により伊達政宗が伊達氏の元の本領以外没収され、会津には蒲生氏郷が入る。翌年の葛西大崎一揆の戦後処理で伊達政宗が岩出山に移封させられると、蒲生氏郷が福島県中通り以西のほとんどを領有した。しかし子の蒲生秀行は会津から宇都宮に移され、代わって越後国の上杉景勝が会津120万石を得て福島県の中通り以西のほとんどの地域と山形県の置賜地方を領有した。
関ヶ原の戦いによって上杉景勝は信夫郡伊達郡を除く福島県域の所領を失い、30万石となる。代わって会津には蒲生秀行が再度入封し、会津藩60万石が成立する。が、2代目の蒲生忠郷が早世し伊予松山藩に移ることになる。次に1627年加藤嘉明が40万石で会津に入封するが、これも2代目加藤明成で会津騒動を起こして領地を徳川幕府に返上した。そして、1643年に松平氏保科正之が23万石で入封し、この松平氏会津藩が戊辰戦争まで続くことになる。
一方、信夫郡と伊達郡も1664年に上杉氏米沢藩から召し上げられ、会津藩以外の大藩はなくなり、会津と浜通り夜ノ森以北(相馬氏領)を除く県内のほとんどの地域で、江戸時代を通じて小藩、天領が入り乱れて激しく変遷した。
江戸時代に会津若松と日光街道を結んだ重要な交通路会津西街道(下野街道)の宿場大内宿が当時の街並みのまま重要伝統的建造物群保存地区として残され往時を偲ばせる。


○幕末から福島県成立まで
1868年 - 1869年、戊辰戦争
会津戦争
白虎隊

諸外国の接近によって、幕府の政治が停滞。その中で尊王攘夷や開国といった主導で日本を立て直そうとする各藩の武士たちが京都に押し寄せた。当代の会津藩主松平容保は京都守護職となり、京都の治安維持を担った。そして禁門の変では、孝明天皇を奪取しようとした長州藩勢から御所を守り抜いた。
しかし、新たに政治を担いたいと幕府を廃しようと目論む薩長同盟(薩摩藩・長州藩)との衝突が、大政奉還後の鳥羽・伏見の戦いから生じ、朝廷側を血守したにも関わらず朝敵に落とされてしまい、相争うが徳川幕府側は幾度も敗北を重ねた結果、戦禍が東北にまで伸びてしまった。圧倒的な西洋戦法を有する薩長の軍勢に、会津藩士は元より、奥羽越列藩同盟の磐城平藩や中村藩などでも各藩の勢力や民衆は徹底して反撃を繰り返したが、降伏してしまった。

廃藩置県
江戸時代幕末に置かれた藩及び城郭、交代寄合陣屋としては会津藩、支城の猪苗代城、二本松藩、棚倉藩、中村藩、三春藩、磐城平藩、福島藩、泉藩、湯長谷藩、下手渡藩、水戸藩支藩の守山藩、幕末に徳川幕府直轄地となった白河城、仙台藩の支城谷地小屋城などがあり、交代寄合の溝口家の横田陣屋、その他に代官陣屋もあった。
明治初期、版籍奉還後の1869年(明治2年)の太政官令により、陸奥国(むつのくに)南端である現在の福島県域は陸奥国から分離し、西側が岩代国(いわしろのくに)、東側が磐城国(いわきのくに)となった。岩代国は現在の福島県中通り地方の中北部と会津地方。磐城国は現在の福島県中通り地方南部と福島県浜通り地方と宮城県南部(亘理郡、伊具郡、刈田郡)にほぼ相当する。
1869年(明治2年)7月20日、福島藩が重原藩に移封され幕府領となっていた伊達郡、信夫郡を管轄するために福島県(第1次)が設置され、安達郡の二本松藩領37村、伊達郡の幕府領42村、盛岡藩領8村、棚倉藩領4村、館藩領2村、信夫郡の幕府領43村、重原藩領19村、足守藩領11村、新発田藩領8村、関宿藩領6村、二本松藩領4村、棚倉藩領2村、宇多郡の幕府領1村を管轄した。この第1次福島県は後述の二本松県に統合され、わずか2年で廃止されている。
1871年(明治4年)7月(旧暦)の廃藩置県で全国に多数の県が生まれた後、同年11月(旧暦)に現在の福島県域は、岩代国の会津地方(旧会津藩領の越後国蒲原郡の一部[のち東蒲原郡]を含む)が若松県、岩代国と磐城国からなる中通り地方が二本松県(二本松県になって、わずか12日間後に県庁が信夫郡福島町に移転、福島県に改称したのでほとんど機能はしていない)、磐城国はほぼそのまま磐前県(いわさきけん)の3つの県として統合された。
1876年(明治9年)8月21日に、福島県(第1次)、若松県、磐前県が合併され、現在の福島県(第2次)が成立した。その際、磐前県北部(亘理郡、伊具郡、刈田郡)が宮城県に、磐前県南部の一部が茨城県に移管され、さらに1886年(明治19年)に東蒲原郡が新潟県へ移管されて、現在の福島県域になった。これらの変遷は最後の東蒲原郡移管を除いて、1869年(明治2年)の藩の制度化の後、1871年(明治4年)の廃藩置県から1876年(明治9年)までの間に、あわただしく行われた(誤解されがちだが江戸時代には公式に「藩」という制度はなく、藩は版籍奉還によって明治2年に制定された制度である)。

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