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山形県 食文化 

温海かぶ
温海かぶ(あつみかぶ)とは、山形県鶴岡市温海地域の主に山間地域で栽培されているカブである。江戸時代から栽培が行われている伝統野菜で、天明5年(1785年)に将軍・徳川家治へ漬物を献上した記録が残っている。山林の伐採跡などで焼畑農法を用いて栽培され、主に漬物(甘酢漬け)に加工されている。


からから煎餅
からから煎餅(からからせんべい)は、三角形に折りたたんだ煎餅の中に小さな玩具を入れ、合わせ目に紙を貼ってとめた菓子である。名は振るとカラカラと音が出ることによる。カラカラ煎餅、がらがら煎餅、ガラガラ煎餅、一部にウントコ煎餅とも。伝統駄菓子の中の食玩で、中に何が入っているかを楽しみにする。主な原料は小麦粉と黒砂糖だが、昔はさらに糠が入っていた。
元禄期(1688年から1703年)の江戸で売られた大黒煎餅が起源とされる。この煎餅では、中に入っていたのが木彫りの小さな大黒であった。それが中にさまざまな玩具を入れるようになって全国に広がった。
明治時代にも駄菓子として人気があり、大正末まで盛んに食べられていた。中に入る玩具は時代とともに移り変わりがあるが、焼き物、鉛、ブリキの小さな模型が多かったようである。子供がわずかな小遣いで煎餅一つを買い求めたのに、大人は袋入りで買い求めた。脚気に効くと言われた時期もある。
昭和に入って廃れ、姿を消したが、山形県鶴岡市で伝統駄菓子として作られ続け、土地の名産になっている。また、山梨県甲府市では、伝統的な祭りである大神宮節分祭の名物として、今でも親しまれている。


鯉こく
鯉こく(鯉濃、こいこく)とは、輪切りにした鯉を、味噌汁で煮た味噌煮込み料理。鯉こくのこくとは、濃漿(こくしょう)という味噌を用いた汁物のことであり、鯉こくはこの濃漿の一種だった。濃漿は江戸時代までは盛んに作られており、鯉ばかりでなくウナギ、フナ、スッポン、サンショウウオ、各種野鳥などでも作られていたとされ、臭みの強い魚肉類を濃く仕立てた薄味噌で煮込んだ料理だった。江戸時代以降は濃漿はほぼ廃れてしまい、鯉を材料とした鯉こくのみが生き永らえて現在に至っている。


三元豚
三元豚(さんげんとん)とは、三種類の品種の豚を掛け合わせた豚を言う。
そのため、国内でも海外でも三元豚と言われる品種は飼育されている。
日本のブランド豚の銘柄名や最近では海外産の豚肉の銘柄名に使われている。
産地の地名を冠した山形三元豚、米沢三元豚という呼称もある。
また、飼育管理方法により状態は大きく異なるため、飼育業者名の独自ブランドとなっている呼び方もある。
また最近ではカナダ産純粋種三元豚(例:麦うらら三元豚)など、海外で交配された豚肉にも使われている。


だだちゃ豆
だだちゃ豆(だだちゃまめ)は、枝豆用として栽培されるダイズの系統群である。山形県庄内地方の特産品。江戸時代に越後から庄内に伝わった品種を選抜育成したものと考えられている。
「だだちゃ」とは庄内地方の方言で「おやじ」「お父さん」を意味する。又、対象とする人を蔑んで呼ぶというニュアンスも含まれるので一般的に口語で利用される事は無い。拠って、現在では普段それほど多用される言葉ではなく、意味は通じるものの死語に近い。
江戸時代、献上された枝豆に対して庄内藩の殿様が「この枝豆は、どごのだだちゃの作った豆だや?」と尋ねたことから、それ以来「だだちゃ豆」と呼ぶようになったという説や、家長である「だだちゃ」にまず最初に食べてもらうのが正当であるということから呼ぶようになったという説など、諸説がある。


はえぬき
はえぬきは、イネの品種のひとつ。1993年品種登録、登録番号 第3346号。山形県で作られた。
日本穀物検定協会が認定する食味ランキングにおいて山形内陸産はえぬきが14年連続、山形庄内産はえぬきが12年連続で特Aを認定されたことからもわかるように、味ではブランド米の魚沼産コシヒカリに全くひけをとらないが、山形県外での作付けがほとんどないため、味のわりに知名度が低く比較的安価で取引されている。冷めても味が落ちにくいことから、おにぎりや弁当用の炊飯米として向いているため弁当業者やコンビニエンスストアからの業務用米としての需要が高く、特にセブン-イレブンのおにぎりの多くに使われているのが山形県産はえぬきであると言われている。



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鶴ヶ岡城 

鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)は、山形県鶴岡市馬場町にあった平城である。

城は鶴岡市街地のほぼ中心に位置する。
江戸時代は庄内藩の藩庁であった。
他の東北地方の城と同様に土塁を多用し、石垣は主要な部分にしか用いられていなかった。
また、天守は構えられなかったが、本丸東北隅に2層2階の隅櫓と二の丸南西隅にも2層2階の隅櫓が建てられていた。
現在、本丸・二の丸跡周辺は「鶴岡公園」となっており、桜の名所として日本さくら名所100選に選ばれている。
鶴岡公園には荘内神社、稲荷神社や大宝館(郷土人物資料館)がある。
三の丸跡には致道博物館があって酒井家伝来の美術品などが展示されており、酒井家御用屋敷跡庭園が整備され国の名勝に指定されている。
鶴岡公園南東には藩校「致道館」が残っており、東北地方に唯一現存する藩校として国の史跡に指定されている。周辺には市役所、文化会館、山形県立鶴岡南高等学校、山形県立鶴岡工業高等学校、東北公益文科大学、慶應義塾大学先端生命科学研究所、鶴岡アートフォーラム(芸術展示施設)などが存在する。

○大宝寺城
鶴ヶ岡城の前身となる大宝寺城が最初に築かれたのは、鎌倉時代初期に出羽国大泉荘の地頭として封じられた大泉氏であると伝えられる。
大泉氏はこの地に土着し、後に武藤大宝寺氏を名乗った。
室町時代初期になると武藤長盛なる武将が出てこの地に権勢を振るった。
戦国時代に入ると武藤氏は庄内地方の有力な勢力となったが、その地位は不安定であった。
天文元年(1532年)には砂越氏維によって大宝寺城は焼亡し、当時の武藤大宝寺氏当主の晴時は本拠を大宝寺城の西にある尾浦城に移した。
そして大宝寺城はその支城の一つとなった。
その後、越後の上杉氏と手を組み、武藤氏は庄内地方の統一を果たし、武藤義氏の時代に最高潮に達した。
しかし、義氏は天正11年(1583年)、最上義光と結んだ家臣の前森蔵人(東禅寺義長)とその弟・勝正らの謀反により自害に追い込まれた。
その後、庄内地方は上杉氏と最上氏の争奪の地となり期に乗じた上杉景勝によって、天正16年(1588年)あっけなく併呑された。

上杉氏もまた、尾浦城を庄内地方の本拠とし大宝寺城は支城とされた。
天正18年(1590年)検地を行った際、これに抵抗した地侍を中心に一揆が起きた。
この時、大宝寺城番芋川正親は城を守りきれず落城した。
一揆の鎮圧にあたった直江兼続は大宝寺城の修復を行い越後兵を常駐させた。


○鶴ヶ岡城
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、上杉氏は西軍に加担した罪により会津120万石から米沢30万石に減封され、代わって庄内地方を支配したのは山形城を本城とする最上義光である。
義光は24万石から57万石を領有する大大名となった。
義光は庄内地方の拠点として大宝寺城、東禅寺城、尾浦城などを整備拡張した。
慶長8年(1603年)各城の整備が整うと、酒田浜に大亀が上がったことを祝し東禅寺城を亀ヶ崎城と改称した。
この時に、亀ヶ崎に対し大宝寺城も鶴ヶ岡城と改称されたのである。
また同時に尾浦城も大山城と改称された。最上氏は3代義俊の元和8年(1622年)に、お家騒動(最上騒動)があり、改易となった。
旧最上領は分割され、庄内地方には信濃国松代城より譜代大名の酒井忠勝が入った。
忠勝は鶴ヶ岡城を本城と定め、亀ヶ崎城を支城とした。
忠勝は入封すると、簡素な造りであった鶴ヶ岡城を近世城郭へと大改修に着手した。
二の丸、三の丸を拡充し、城下町の整備を行った。
庄内藩の本城としての偉容が完成したのは、3代忠義の時であり54年の歳月が費やされた。
本丸は一部に石垣が使用されたが大半が土塁であり、幅約20mの水堀に囲まれている。
本丸内には御殿と北西隅の二重櫓が天守代用としてあり、他に単層2階の他門櫓が2基上がり本丸の城門は櫓門が上がっていた。
二の丸東南隅に2重櫓、二の丸の城門も全て櫓門であった。
宝永元年(1704年)には、鬼門である東北隅に稲荷神社が勧進され、毎年の初午祭礼の際には町人も城内に入って参詣することができた。
文化2年(1805年)9代忠徳は藩校「致道館」を設けた、文化13年(1816年)には、現在地である三の丸に移転された。
文政7年(1824年)柿葺であった城内の建物は、全て瓦葺となった。
天保11年(1840年)幕府より三方所替の命が下り、酒井氏は越後国長岡城への移封を命じられた。
しかし、幕府に対し領民の抵抗運動が起こり命令は取り下げられた。
慶応4年(1868年)1月より始まった戊辰戦争では奥羽越列藩同盟にて会津藩と共に最強硬派として官軍と戦い、会津藩が降伏した後、明治と改元された9月25日まで徹底抗戦を行った。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、明治9年(1876年)には城内の建築物は全て破却され鶴岡公園となった。
明治10年(1877年)本丸跡に藩祖酒井忠勝を祀る荘内神社が設けられた。
また、大正4年(1915年)には大宝館が建てられ、市立図書館として昭和60年(1985年)まで活用された。
現在は鶴岡出身の著名人の資料館となっている。
昭和25年(1950年)には致道博物館が三の丸跡に開設した。
昭和26年(1951年)藩校致道館が国の史跡に指定された。
三の丸跡に残る酒井家御用屋敷跡庭園は酒井氏庭園として昭和51年(1976年)に国の名勝に指定された。

鶴ヶ岡城


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最上義光 

最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。
最上氏第11代当主。出羽山形藩初代藩主。
伊達政宗の伯父にあたる。
関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。

天文15年(1546年)1月1日、第10代当主・最上義守と母・小野少将の娘との間に長男として生まれる。
幼名は白寿。
永禄3年(1560年)に元服し(永禄元年とも)、将軍・足利義輝より偏諱を賜り、源五郎義光と名乗った。
この年3月、寒河江城攻めにて初陣を飾っている。
しかしこの寒河江攻めは失敗に終わり、天文の乱において伊達氏からの独立性を回復して以降、推し進められてきた義守の領土拡張策はここに至って頓挫した。
永禄6年(1563年)、義守・義光父子は上洛して将軍・義輝に拝謁したが、その折に道中の安全と武運長久を祈って義光の母が刺繍した「文殊菩薩騎獅像」が近年再発見された。
永禄7年(1564年)には義光の妹・義姫(のちの保春院)が伊達輝宗に嫁ぎ、永禄10年(1567年)には長男・梵天丸(後の伊達政宗)を生むが、この婚姻は後々まで両家に大きな影響を与えることとなる。
元亀元年(1570年)頃、当主の義守と嫡男の義光父子の間で諍いが生じる。
5月に重臣・氏家定直の仲裁で父子が和解したが、8月には義光が家督を相続し(翌年とも)、翌元亀2年(1571年)に隠居の義守は出家して「栄林」と号した。
しかし天正2年(1574年)1月、両者の間が再び険悪になると、伊達氏からの独立傾向を強めていた義光を抑えるべく、伊達輝宗が岳父・義守救援の名目で最上領内に出兵する。
天童頼貞・白鳥長久・蔵増頼真・延沢満延らが輝宗に同調するなど四面楚歌の状況であったが、義光はこれらの攻勢を巧みに退けた。
9月10日には義光有利のうちに和議が成立し、最上氏は伊達氏からの完全な独立に成功した。
以後、義守・義光父子は和解し、再び争うことはなかった。
従来、義守が義光を廃嫡して次男の義時に後を継がせようとしたことが両者不和の原因とされてきたが、一級史料には全く義時の名が見られないため、今日ではこの説は義時の存在も含めて後世の創作と見なされている。

○出羽統一戦
家督相続を巡る一連の抗争が義光の勝利に終わった後も、最上氏分家の天童頼貞・東根頼景・上山満兼などは依然として義光に従わず、谷地城主・白鳥長久は、最上氏の家職である羽州探題を自称し、中央の実力者織田信長に出羽守への推任を願い出るなど、この時点ではまだ最上一郡の支配すらもおぼつかない状態であった。
そのため義光はまず家中法度の整備など足場固めに努め、しかる後に羽州探題・最上氏の勢威を回復させるための戦に乗り出した。
天正5年(1577年)、天童頼貞を盟主とする最上八楯と戦うも決着せず、和睦して頼貞の女を義光の側室に迎えた(天童御前)。
天正6年(1578年)、上山満兼が伊達輝宗の支援を受けて最上領に侵攻した。
義光は粘り強く防衛につとめ攻城戦から野戦に持ち込み、連合軍に手痛い打撃を与えた。
浮き足立つ輝宗の陣に、兄の危機を察した妹・義姫が駕籠で乗りつけ、両者を説得して和議を結ばせた(柏木山の戦い)。
天正8年(1580年)、義光は満兼の重臣・里見民部に内応すれば上山領を与えると誘いをかけ、これに乗った民部は満兼を殺害して義光に降り、上山城は義光の手に落ちた。
天正9年(1581年)から村山郡にも兵を進め、まずは天童氏の姻戚である小国城主・細川直元を万騎ヶ原の戦いで破り小国城を攻略。夏には小野寺氏重臣の鮭延城主・鮭延秀綱を調略する。
天正10年(1582年)、天童御前が三男・義親を産んで間もなく死亡したため、天童氏との和睦は白紙に戻った。
天正11年(1583年)、庄内の大宝寺義氏が最上攻めを計画したが、義光は事前に大宝寺家臣の東禅寺義長らを内応させており、義長は謀反を起こし逆に義氏を急襲した。
不意を突かれた義氏はなすすべも無く自刃した。
天正12年(1584年)、義光は白鳥長久の娘を嫡男・義康の室に迎えることで懐柔しようとしたが応じなかったため、病で危篤に陥ったと偽って長久を山形城に誘き出して自ら斬殺すると、ただちに谷地城を攻略した。
続いて寒河江城主・寒河江高基を攻めて自害させ、寒河江氏を滅した。
また、父・頼貞の跡を継いだ天童頼澄を攻めるも、最上八楯の一人・延沢満延の奮戦で最上軍は敗退する。
そこで義光は、満延の嫡男・又五郎に次女・松尾姫を嫁がせて、満延を引き抜くと、さらに東根頼景の家老・里見源右衛門を内応させて東根城を攻略する。
追い詰められた頼澄は国分盛重を頼って落ち延びた。
こうして天童氏を盟主とする最上八楯は崩壊し、義光は最上郡全域を支配下に収めた。
天正14年(1586年)、小野寺義道と有屋峠で戦う。緒戦は敗北するも、嫡男・義康と楯岡満茂らがよく反撃し、小野寺勢を撃退することに成功した。
天正15年(1587年)、大宝寺義氏の弟・義興が上杉景勝に接近を図っているという情報を知った義光は、素早く義興を攻撃して自刃させ、義興の養子・義勝(上杉家臣・本庄繁長の子)は越後に逃れた。
天正16年(1588年)2月、伊達政宗が1万の軍勢で義兄・大崎義隆を攻撃すると(大崎合戦)、義光は援軍5,000を派遣して義隆と共に伊達軍を破ったが、義光の妹・義姫(保春院)が両軍の間に自分の乗った駕籠を置かせて停戦を懇願したため、両者は和議を結んで撤退した。
8月、最上勢が動けないと判断した上杉家が家臣の本庄繁長、大宝寺義勝父子に庄内侵攻を命じ、十五里ヶ原の戦いで最上軍は大敗し、庄内地方は既に上杉氏の影響下にあった大宝寺氏に奪還された。
その後も上杉軍との戦いは続いたが、上杉家の重臣・直江兼続が石田三成経由で豊臣秀吉に接近、義光は以前から懇意であった徳川家康を通じて交渉にあたるも、秀吉の裁定により庄内地方は上杉領として公認された。

○豊臣政権下
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、宇都宮城にて夫人と秀吉に拝謁し本領24万石の安堵を受けた。
この時、義光は直前に没した父・義守の葬儀のため甥・政宗よりさらに遅参しているが、事前に家康と交渉していた成果もあり、咎めはなかった(小田原参陣前に義光が秋田実季に宛てた書状には「遅参を御朱印状で認められている」とある)。
また奥州仕置の際に発生した仙北一揆に乗じて小野寺領に出兵し、雄勝郡(上浦郡の一部)を削り取った。
なお小田原参陣前、妹・義姫を利用し政宗毒殺を目論んでいたとされることがあるが、この説が正しいかは諸説ある。
天正19年(1591年)、家康が九戸政実の乱の征伐に来た際に、次男・家親を諸大名に先駆けて徳川家の小姓として出仕させた。
この討伐に同行していた豊臣秀次が山形城に立ち寄った際、三女・駒姫の美貌に目をつけ、義光に側室に差し出すよう執拗に迫った(山形城に秀次は立ち寄らず、美貌の噂を聞いて迫ったという説もある)。
義光は断ったが、度重なる要求に屈し渋々娘を差し出すこととなった。
駒姫の成長を待って欲しいというのが、彼のせめてもの抵抗であった。
また、三男・義親を秀吉に仕えさせ、最上家の安泰をはかった。
天正20年(1592年)、朝鮮出兵に備えて肥前名護屋に滞陣するも、渡海はせずに済んだ。
また、この年より山形城の改築に取り組み始めた。
このころ、秀吉から羽柴の名字を与えられる。
文禄3年(1594年)、小野寺義道の忠臣・八柏道為に偽の書状を送る。
この計略にはまった義道は道為を成敗した。
その後、義道は義光相手に連敗し関ヶ原の戦い(慶長出羽合戦)では西軍に味方し、戦後改易された。
文禄4年(1595年)、秀次が謀叛の疑いで切腹させられた際(秀次事件)、娘の駒姫も連座して京三条河原で処刑された。15歳だった。
一説では、駒姫は実質的には秀次の側室でさえなかったという。
義光は必死で助命嘆願をしたが間に合わなかった。
義光夫妻の悲嘆は激しく、悲報を聞いた義光は数日間食事を摂ることもままならず、駒姫の生母・大崎氏はまもなく駒姫の後を追うように死亡している。
義光は秀吉の不興を買い、さらに政宗らと共に秀次への加担を疑われ謹慎処分を受ける。
この時、父の無事を息子・義康と家親が祈願していることからも、相当追い詰められた義光の立場が判る。
この処分は間もなく解けたが、義光の秀吉に対する憎悪は決定的なものとなった。
これ以降、慶長伏見地震の直後に秀吉ではなく家康の護衛に駆けつける、秀吉から茶に招かれた家康を自発的に護衛する等、徳川方への傾斜をますます強めていく。
慶長3年(1598年)、会津若松城主・蒲生秀行が家臣団の争いを押さえられずに転封されると(蒲生騒動)、会津には上杉景勝が奥羽諸大名の監視と関東の徳川家康牽制のために送り込まれた。
景勝とは庄内地方を巡り激しく争ってきた経緯があり、また上杉領が最上領によって会津と庄内・佐渡に分断されることになり、両者の衝突は避けられない状態となった。

○慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)
慶長5年(1600年)、家康は会津の景勝が軍備を増強していることを詰問する。
上杉家の重臣・直江兼続はこれに対して絶縁状ともいえる直江状で返答した。
これを受けた家康は同年6月、家康は会津征伐を開始した。
義光ら奥羽の諸将は東軍(徳川方)に味方し、米沢城攻撃のため最上領内に集結していった。
しかし、家康が会津征伐に赴く最中に、上杉氏と昵懇であった石田三成らが、反家康を名目にして上方で挙兵した。
家康はこれを知ると会津攻撃を中止し、義光、政宗、結城秀康らに景勝の牽制を命じ上方に引き返した。
これを受け、奥羽諸将は最上領内から引き上げ始め、中でも領内で一揆が発生した南部利直は、急ぎ引き返した。一方で政宗は孤立を警戒し上杉勢と講和を結ぶ。
義光は東軍につく決意を固めていたが、上杉領と接している家臣団はこれに反対し、義光も圧倒的不利を悟り、嫡子・義康を人質に出すことを条件に上杉勢と講和をはかった。
しかし、義光が東軍方の秋田実季と結び上杉領を攻める形跡を上杉側に知られたため講和は成立しなかった。
こうして最上家は完全に孤立した状態で、上杉家と対峙することとなった。
景勝は直江兼続に2万~2万4千余の軍勢を預け、最上領侵攻を開始した。
これに対抗する最上軍は7,000余(実際は小野寺義道を牽制するため庄内に出兵していたため、さらに少なく3,000余)でしかなかったが、上杉軍に対して義光は2,000挺もの鉄砲を駆使して抗戦した。
わずか350名の最上兵が駐屯する畑谷城の守将・江口光清は、兵力集中のため撤退するようにという義光の命令を無視し籠城した。
光清の器量を惜しんだ兼続は「降伏すれば名誉ある処置をとる」と勧告したが、光清はこれを拒否し抗戦した。
光清父子に率いられた守兵はよく持ちこたえ、上杉軍に1,000名に近い死傷者を出す損害を与えるも、衆寡敵せずまもなく全滅、畑谷城は陥落した。
続いて上杉軍は山形城の要である長谷堂城を攻撃するが、守将・志村光安率いる1,000名は上杉勢相手によく城を守り、鮭延秀綱らの奮戦もあって敵将・上泉泰綱を討ち取るなど多くの戦果を挙げた。
他にも上山城の里見民部、湯沢城の楯岡満茂ら最上勢の守将は善戦し、上杉勢・小野寺勢相手に城を守り抜いた(慶長出羽合戦)。
義光は嫡子・義康を派遣し、甥・政宗に援軍を要請した。
この頃政宗は、南部利直が最上領に援軍として向かったことを知ると、和賀忠親を煽動し一揆を起こさせ領土拡大を狙っていた(岩崎一揆)。
政宗は留守政景率いる約3,000の援軍を派遣したが、最上領で戦局を見守るに留まった。
一説によれば、政宗は重臣・片倉景綱から「山形城が落城するまで傍観し、疲弊した上杉勢を討ち、漁夫の利を得るべし」との献策を受けていたが、母・義姫が山形城内にいることを考慮しその策を却下したといわれている。
9月29日、上杉軍は関ヶ原の戦いの敗報を聞いて長谷堂城の包囲を解き、米沢城に退却した。
西軍敗戦の報を聞いた義光は、家臣・堀喜吽の制止に「大将が退却してどうやって敵を防ぐのか!」と反論し、先頭に立って上杉勢に追いすがった。
しかし、敵の一斉射撃に襲われ、堀喜吽は戦死し、義光自身も兜に被弾してしまう。
結局、最上軍はあと一歩のところで兼続を取り逃がしてしまった。
兼続の退き際の見事さには、敵である義光も賞賛を惜しまなかったという。
上杉軍が退却し、和平交渉へ向けて動いている間に最上勢は逃げ遅れた上杉勢を素早く追撃し、尾浦城主下秀久も降伏した。
こうして短期間のうちに上杉領の庄内地方・由利郡を奪取し、勢いに乗り小野寺氏の横手城攻略にまで成功した。
義光は上杉軍を撃退した功により、攻め取った庄内地方などを加えられ、上杉領である置賜郡を除く現在の山形県全土と由利郡(佐竹氏との領土交換により、当初所有していた雄勝郡・平鹿郡と引き換えた)計57万石を領し、出羽山形藩の初代藩主となった。
また、秋田実季が東軍を裏切ったとして訴え、常陸国に移封させた。

○晩年
江戸幕府成立以降、義光は領内の復興に尽力した。
自国の民に対して非常に寛容であり、義光存命中は一揆もほとんど起きなかったと云われる。
彼の統治下における善政はのちに「最上源五郎は役をばかけぬ」と謳われた。
居城である山形城を改築し、国内有数の広さの平城に拡張するとともに、城下町の整備に取りかかった。
まず、商人町を整備するため、山形城下においては地子銭・年貢を免除し、間口四間半から五間、奥行三十間を基本とした125坪から150坪の土地を分け与えるとともに、羽州街道・笹谷街道沿いに定期市を設けた。
さらに上杉から奪い返した日本海の要津・酒田港を最大限に活用すべく、庄内から山形へ通じる二本の街道を改修・拡幅するとともに、最上川の三難所を開削して水運の安全性を高め、領内の流通を盛んにして藩財政を大いに潤した。
また職人町は「御免町」として諸役が免除され、職人の中には家臣並の待遇を受けた者も居た。
当時の町数は31、町屋敷は 2,319軒で人口19,796人。
これに家臣団を加えると人口は3万人を超えた。
農政面では、治水工事を積極的に推進し、北楯利長・新関久正らに命じ北楯大堰・因幡堰などの疏水を開削して用水問題を解決し、庄内平野の開発を進め、農業生産力を大きく向上させた。
最上時代に築かれたこれらの疏水は、今なお庄内平野を潤し続けている。
大宝寺城を改築して鶴ヶ岡城と改称し、自らの隠居所とした。
義光と嫡男・義康の関係は当初良好であったが、家臣の讒言によっていつの間にか険悪なものとなっていた。
このことは、家親に家督を継がせたい幕府や、それを利用せんとした家臣の思惑も絡んでいたと言われている。
そんな中、慶長8年(1603年、1611年説もあり)、義康が何者か(重臣里見民部の家臣(義光の陪臣)原八右衛門か?)によって暗殺された。
この事件については未だ詳細は不明であり、義光の意向によるものとされることもあるが、家臣たちの単独犯行説もありはっきりしない。
家康は、義光が近侍させていた次男・家親をことのほか気に入っており、義康廃嫡は家康の意向を受けてとのことだとも言われている。
この事件は、義光の最上氏の安泰を計った思いが結果として裏目に出てしまったものといえる。
義康の死が最上家改易の遠因になったことは再三指摘されることではあるが、改易には家親の夭折、家臣の強訴といった要素が大きいとの意見もある。
城主たちの連合からなる最上家臣団が一枚岩ではなく、義光の力を以てしても統制がとれていなかった面も指摘されている。
義光が行った義康の供養は、駒姫のものと同じく大変手厚いものであった。
慶長16年(1611年)3月、従四位下、左近衛少将と出羽守に叙位・任官する。
その後、駿府城新築祝いのために駿府に上府したが、この頃から病がちになる。
慶長18年(1613年)、義光は病躯を引きずるようにして江戸に上り将軍・徳川秀忠に謁見、さらにその後駿府に赴き家康に謁して最上家の今後を託した。
明けて慶長19年(1614年)1月18日未刻、山形城に帰還してまもなく病死した。
享年69。葬儀当日、寒河江十兵衛、寒河江肥前守、長岡但馬守、山家河内守の4人の家臣が殉死した。
義光の墓所は山形市鉄砲町の光禅寺にある。

最上義光


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蔵王温泉 

蔵王温泉(ざおうおんせん)は、山形県(旧出羽国、明治以降は羽前国)の山形市南東部、蔵王連峰の西麓にある温泉
標高880mに位置し、古くは高湯(たかゆ)と呼ばれた。
同県の白布温泉、福島県の高湯温泉と共に奥羽三高湯の一つに数えられる。

源泉が複数あって、それぞれ温度やpHが少しずつ異なるが、強酸性の泉質が特徴である。
強酸性泉が古くから皮膚病に高い効能があるとされる。
また肌を白くする効能から「姫の湯」の異名も持つ。

いくつかの共同浴場や日帰り入浴施設がある。
また国内有数のスキー場である山形蔵王温泉スキー場に隣接しており、数十件の旅館やホテルが建ち並ぶ。
その数は、企業の保養所まで含めて120軒を越える(ただし温泉を引いていない施設も含まれる)。
温泉街にそって酢川が流れ、上流には温泉を祀った酢川神社がある。
共同浴場は上湯、下湯、川原湯が存在する。
他に日帰り入浴施設が3軒存在する。
春から秋にかけては、川沿いに「大露天風呂」が作られ、蔵王温泉の名物となっている。
共同浴場下湯の前には足湯も設置されている。

伝説によると、東征した日本武尊に従った吉備多賀由(キビノタガユ)によって西暦110年頃発見され、多賀由から転じて高湯(標準語・共通語:たかゆ、山形弁:たがゆ)と呼ばれるようになったという。
1950年(昭和25年)、毎日新聞社主催により「新日本観光地百選」が公募されると、山形県民は蔵王連峰を推す葉書運動を展開し、山岳部門で見事1位となった。
この結果に地元は熱狂し、蔵王連峰西麓にある南村山郡堀田村は村名を蔵王村に改称。
同村内の高湯も蔵王温泉に改称された。
なお、同郡東沢村に蔵王連峰主峰の熊野岳があり、その山頂にある熊野神社も1952年(昭和27年)に蔵王山神社に改称した。
山形市が1954年(昭和29年)に東沢村を編入合併すると蔵王の主峰が市内となり、さらに1956年(昭和31年)に蔵王村も編入合併したため、当温泉は市内の秘湯として名声を得た。
1960年代には高度経済成長が地方にも及ぶようになり、1962年(昭和37年)には蔵王エコーラインが開通し、1963年(昭和38年)には蔵王連峰が蔵王国定公園に指定され、1964年(昭和39年)には日本百名山の1つに蔵王山が選ばれるなど、蔵王エリアは観光地として注目を集めるようになった。
山形県では、当地の観光振興を企図して1963年(昭和38年)に「蔵王夏まつり」を開催した。
後に同祭から「山形花笠まつり」が独立して東北四大祭りへと発展するが、当温泉もこれ以降飛躍的に発展し始めた。
その後の当温泉は、高原保養地して施設拡充され、さらに山形蔵王温泉スキー場の大型化も行われ、東北地方を代表する山岳リゾートとなった。
また、バブル景気前後には道路や新幹線の供用開始が相次ぎ、遠隔地から当温泉へのアクセスが飛躍的に向上した。
近年は仙台空港の国際線などを利用した外国人客の増加が顕著であり、2006年(平成18年)実績では山形市の外国人観光客の約2/3 (66.1%) を当温泉地区が占めている。
韓国人のスキー目的来日先は長野県に次いで山形県が2位であるが、スキー場単位では当スキー場が全国1位であり、シーズン中1万人を超える当スキー場への韓国人客は当温泉宿泊客の新たな主要顧客層となっている。
なお、オーストラリア人客は2000年代末時点で数千人程度だった。

蔵王温泉(山形県)


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tag: 歴史    温泉  山形  掛け流し 
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立石寺 

立石寺(りっしゃくじ)は、山形県山形市にある天台宗の寺院。山号は宝珠山。
本尊は薬師如来。寺号は詳しくは宝珠山阿所川院立石寺(ほうじゅさんあそかわいんりっしゃくじ)と称する。
山寺(やまでら)の通称で知られ、古来、悪縁切り寺として信仰を集める。
寺名は古くは「りうしゃくじ」と称した。蔵王国定公園に指定されている。
平泉中尊寺・毛越寺、松島瑞巌寺とともに「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。

立石寺の創建について、寺伝では貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされている。
当寺の創建が平安時代初期(9世紀)にさかのぼることと、円仁との関係が深い寺院であることは確かであるが、創建の正確な時期や事情については諸説あり、草創の時期は貞観2年よりもさらにさかのぼるものと推定される。
『立石寺記録』(立石寺文書のうち)は、「開山」を円仁、「開祖」を安慧(あんね)と位置づけており、子院の安養院は心能が、千手院と山王院は実玄が開いたとされている。
安慧は円仁の跡を継いで天台座主となった僧であり、心能と実玄は円仁の東国巡錫に同行した弟子である。
安慧は承和11年(844年)から嘉承2年(849年)まで出羽国の講師の任にあり、東国に天台宗を広める役割をしたことから、立石寺の実質的な創立者は安慧であるとする説もある。
また、円仁が実際に東国巡錫したのは天長6年(829年)から9年(832年)のこととされ、この際、弟子の心能と実玄をこの地に留め置いて立石寺の開創にあたらせたとの解釈もある。
立石寺には貞観2年(860年)12月の日付をもつ『円仁置文写』が伝わるが、この文書は必ずしも寺の創建年次を示すものではなく、この文書自体が後世の仮託とする説もある。
貞観2年(860年)には、円仁は当時としては高齢の60歳代で、しかも天台座主の高位にあった。
したがって、この時期に円仁が実際に今の山形県に出向いて立石寺を建立したということは、年齢と地位の両面から、文字通りの史実とは考えがたく、円仁の意を受けた安慧らによって9世紀半ば頃から徐々に寺観が整えられたとみるのが穏当である。
なお、根本中堂に安置されている木造毘沙門天立像は、近年の調査によって9世紀頃の作であることが判明しており、円仁とみられる頭部のみの木彫像と同様、立石寺創建期の一例に加えられる。
また、胸甲の上で甲締めの結び目を表していることや細い腰帯の下に幅広の腰帯を着けるなど珍しい甲制となっているが、これらは東北地方の神将形の作例にしか見られないもので、平安時代には同種の作例がある寺院との間に繋がりがあったことを示唆させる特徴を持つ点でも注目に値する。

立石寺には円仁(慈覚大師)の遺骸を安置すると伝える入定窟(にゅうじょうくつ)がある。
史実としては、円仁は貞観6年(864年)、比叡山で没しており、立石寺に実際に遺骸が移されたという確証はないが、入定窟の上に立てられた天養元年(1144年)の「如法経所碑」が現存し、そこには「大師の護持を仰いで法華経を埋納する」という趣旨のことが書かれていて、この時代(12世紀)、すでに円仁がこの地で入定しているとする伝承が成立していたことがわかる。
昭和23年(1948年)から翌年にかけて入定窟の学術調査が実施され、金箔押しの木棺と人骨5体分、円仁像と思われる頭部のみの木彫像などが発見された。
この木彫像の頭部については、目鼻立ちなどの特色から円仁像であることは認められ、作風からも9世紀頃の制作であると認められている。

昭和25年(1950年)に寺が県立公園に登録されると当時隆盛を極めていた観光ブームの煽りを受け、参拝客増加に対応するための「交通機関」として寺は全長約300m、高低差約150mの滑り台を建設した。
これは参拝客に楽しく麓まで下ってもらうための意図があったとされるが、滑り台の斜面の角度が約30度ほどで加速がかなりつき、参拝客の尻が火傷したり転落して負傷する事態が頻発するなど安全面で問題視され、結局1970年代の初めに廃止されたといわれている。
ただし、遊園地のジェットコースターなどスリリングな遊具があまり無かったこの時代の人間にとっては好評であったようである。この遺構は現在も残されている。

立石寺納経堂(山形県)


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山形城 

山形城(やまがたじょう)は、山形県山形市霞城町にあった城。
別名で霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれる。
また、吉字城とも呼ばれた。国の史跡に指定されている。

おおよそ基礎は、最上義光の時代につくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられたものである。
江戸時代には山形藩の政庁が置かれた。
現在は、そのほとんどが失われ、二の丸跡が霞城公園として残されている。
建造物では、大手南門が、市内の万松寺山門として移築され現存する。
また、市内八日町宝光院の本堂は、御殿の建物を移築したものといわれている。(県指定文化財)

山形市は、2033年をめどに本丸全体の発掘調査を完了させるとともに、本丸北枡形の復元を完了することを計画している。
2012年度末現在、本丸は一文字門及び御殿等の写真・図面などの史料が発見されていないことにより、大型建築物の復元のめどは立っていないが、本丸大手門の高麗門及び土塀は時代考証に基づき復元が行われている。
2013年の発掘調査は本丸西側濠の遺構が中心となり、本丸濠南西部に関しては本丸土塁構築が出来る状態となっている。

山形城三の丸の広さが235万m2であり、城自体の建物や構造など異なるが、日本国内では5番目の広さで、奥羽地方では最大の城であった。
しかし、度重なる藩主交代に伴って石高が削減される一方の山形藩にとっては、維持することすら困難となる広さであった。
そのため、手入れが行き届かず、秋元氏時代(明和4年〈1767年〉)には二ノ丸東大手門の門中央の破損が著しいことから、修理した際に多門櫓が渡る櫓門であったものを、傷みの著しい中央部分のみを修理したため平櫓2基の間に渡すような姿となっていた。
その様子は、明治初期に撮影されている。幕末期の水野氏5万石時代には荒廃したままである部分もあった。

山形城は、本丸、二の丸、三の丸が、同心円状に配置された輪郭式平城である。
二の丸には5つ、三の丸には11の出入り門が作られた。
中世の居館を拡張して城郭とし、本丸は御殿のみで天守は造られなかったが二ノ丸に御三階櫓が建てられた。
二の丸は一辺500メートルほどの方形、三の丸は1.5キロメートルから2キロメートルほどの楕円形であった。
本丸には御殿、二の丸には藩の政庁と御三階櫓が、三の丸には534人の上級、中級の最上家家臣の屋敷、城外には1,326人の家臣の屋敷と寺院が町方を取り囲むように置かれた。

山形城



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山形県 

山形県(やまがたけん)は、日本の東北地方南西部の県。日本海に面する。県庁所在地は山形市。

県域を地図で見ると人間の顔の形(西向きの横顔)をしている。県の東側一帯で宮城県との境に奥羽山脈、県の西部に朝日連峰がそびえているように、県域の大半 (85%) を山地が占め、総面積に対する森林の割合は 75% 、農業用地の割合は15%である。県の中央には最上川が流れる。
県民の多くがこの川の流域に住んでいるため、「母なる川」とも呼ばれている。北西側の日本海上には県唯一の離島、飛島がある。

県下には、以下の13市8郡19町3村がある。
町は「まち」(河北町では「ちょう」)、村は「むら」と呼んでいる。また、全国的に行われている市町村合併による新規市制の発足において、新しい名称の市が誕生しなかった数少ない都道府県(他に神奈川県、大阪府、鳥取県、宮崎県)である。

○古代
今から約3万年前頃(後期旧石器時代)に大型哺乳動物(ナウマンゾウ、オオツノシカ、ヘラジカなど)を狩猟する人々が山形に現れた。その時代の遺跡として最上川(真木遺跡朝日町)や荒川(荒川遺跡小国町)・赤川などの主要河川やその支流(明神山遺跡寒河江町寒河江川)の河岸段丘上に100カ所以上見つかっている。それらの遺跡からは、槍先に使う斜軸尖頭器や木の枝や骨に溝を付けそこに埋め込み利器とした石刃などの狩猟用道具が多く発見されている。
山形県で古墳文化が到来した時期は、思いのほか早く(海上の日本海側の交易ルートは新潟の糸魚川産の翡翠などの例もあるように古代から拓けていたため)、米沢盆地内の米沢市摘山古墳や南陽市蒲生田山2 - 4号墳は、4世紀前半には造営されていた。そして、県内最大、東北5番目の大きさを誇る前方後円墳の稲荷森古墳(全長96m、南陽市)が出現したのは375 - 400年の頃であった。
出羽国の南部に当たる地域。古くは越後国と陸奥国の一部であったが、越後国からの要請があり、708年(和銅元年)出羽(でわ)郡が置かれた。出羽は初め「いでは」と読み「出端」の意味で、越後の国からみて北端に出ていたことから命名されたらしい。さらに翌年、出羽柵が出羽郡に設置された。出羽郡の範囲は、ほぼ最上川より以南の庄内地方を指していたらしいが、位置についての説は色々あって確定していない。712年(和銅5年)9月、出羽国建国が奏上され、元明天皇から裁可されて、同年10月に陸奥の国から最上・置賜の2郡を分けて出羽郡に合併し、出羽国が設けられ、庄内に国府が置かれた[2]。県名は、山の近くという意味の町名、山方に由来すると言う。

○中世
霞城公園 最上義光像
斯波氏 - 奥州管領・羽州探題 - 最上氏 - 伊達氏 - 武藤氏
室町時代には陸奥国の奥州探題・斯波氏が分派して山形に住み着き、地名を採って最上氏と称した。また、室町時代初期に陸奥国伊達郡を拠点としていた伊達氏が置賜地方に侵攻し長井氏を滅ぼし支配下においた。
戦国時代は最上地方の最上氏、置賜地方の伊達氏(天文の乱の後、本拠を伊達郡から米澤に移した)、庄内の大宝寺氏が割拠した。最上氏は最上義光、伊達氏は伊達政宗の名将が登場し、一大版図を築いた。関ヶ原の戦いにおいては、会津・上杉軍と山形・最上氏との間で激戦が繰り広げられた。(長谷堂城の戦い)

○近世
江戸時代には庄内藩そして現在の酒田市にある支城の亀ヶ崎城、米沢藩、米沢新田藩、新庄藩、山形藩、上山藩、(出羽)松山藩(→松嶺)、天童藩、長瀞藩の各藩があった。明治時代の地方区分では、羽前国全域と、羽後国の飽海郡が、現在の山形県に相当する。
豊臣秀吉の奥州仕置 - 長谷堂合戦 - 米沢藩 - 上杉鷹山 - 羽州街道 - 清河八郎
幕末(1867年)に現県域内にあった藩
米沢藩 - 米沢新田藩 - 上山藩 - 山形藩 - 長瀞藩 - 天童藩 - 新庄藩 - 庄内藩(鶴岡藩) - (出羽)松山藩

○近代

明治時代の山形県庁

旧山形県庁舎 文翔館
1868年(明治元年) - 戊辰戦争
12月 - 戦後処理として米沢・上山・天童・鶴岡(庄内)・松山の各藩が減封される
1869年(明治2年)6月 - 版籍奉還後、米沢新田藩が廃され米沢藩へ編入。他の藩は存続するが、鶴岡藩は大泉藩、松山藩は松嶺藩と改称される(鶴岡藩の改称は9月)。
1869年(明治2年)7月 - 酒田県(第1次)を設置。羽前国村山郡の長岡代官所(現寒河江市に所在)管轄の旧幕府直轄地(天領)113村、棚倉藩領12村、上山藩領7村、館林藩領2村、田川郡の大泉藩領99村、羽後国飽海郡の大泉藩領244村、由利郡の旗本領20村、亀田藩領3村を管轄
1869年(明治2年)11月 - 長瀞藩が上総国(現千葉県)に移転(→大網藩)。羽前国内の旧領4村を酒田県に編入。
1870年(明治3年)7月 - 山形藩が近江国(現滋賀県)に移転(→朝日山藩)。羽前国内の旧領51村を酒田県に編入。
1870年(明治3年)9月 - 酒田県が山形に移転し、山形県が設置される
1871年(明治4年)7月 - 廃藩置県により米沢県、上山県、天童県、新庄県、大泉県、松嶺県が設置され、既存の山形県とともに7県となる
1871年(明治4年)8月 - 天童県が廃され、山形県に編入される
1871年(明治4年)11月 - 第1次府県統合により山形県(村山郡・最上郡)、置賜県(置賜郡)、酒田県(第2次。田川郡・飽海郡)の3県に統合される
1875年(明治8年)8月 - 酒田県(第2次)の県庁が鶴岡に移転し鶴岡県と改称される
1876年(明治9年)8月 - 第2次府県統合により山形、置賜、鶴岡の3県を統合し現在の山形県となる。初代県令に三島通庸が就任。現在の山形市旅篭町に県庁設置。
1878年(明治11年) - 郡区町村編制法により村山・置賜・田川の各郡を分割。県内に次の11郡が設置される。
南村山郡、東村山郡、西村山郡、北村山郡、最上郡、南置賜郡、東置賜郡、西置賜郡、東田川郡、西田川郡、飽海郡
1889年(明治12年)4月 - 南村山郡山形・南置賜郡米沢がそれぞれ市制施行し、山形市・米沢市となる。町村制により、8町213村が誕生。
1891年(明治14年) - 県下に郡制を布く
1911年(明治44年)5月8日 - 山形市北大火により山形県庁全焼
1924年(大正13年)10月1日 - 西田川郡鶴岡町が市制施行し、鶴岡市となる
1933年(昭和8年)4月1日 - 飽海郡酒田町が市制施行し、酒田市となる
7月25日 - 山形測候所で40.8°Cを記録。2007年(平成19年)8月16日に熊谷市および多治見市で40.9°Cが観測されるまで、74年間にわたって国内最高気温であった。
1968年(昭和43年) - 13市27町4村の体制となる
1975年(昭和50年)9月9日 - 山形県庁を現在地に新築移転
2005年(平成17年)- 13市19町3村の体制となる

山形県


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出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)庄内地方 

出羽三山(でわさんざん)とは、山形県庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称である。
修験道を中心とした山岳信仰の場として、現在も多くの修験者、参拝者を集める。

それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社という。
羽黒山に3社の神を併せて祀る三神合祭殿があり、宗教法人としての社務所も羽黒山(鶴岡市羽黒町手向7)に置かれている。
現在、多くの参拝者を集め賑わっている出羽三山ではあるが、参拝者の多くは信者ではない観光客であり、出羽三山の数十年後の未来を担う若い世代の信者は少なくなっている。信仰の継承が未来への課題である。

出羽三山は、出羽三山神社の社伝では崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。
崇峻天皇が蘇我氏に弑逆された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。
そこで、3本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝える。

月山神社は『延喜式神名帳』に記載があり、名神大社とされている。
出羽神社も、『神名帳』に記載のある「伊氐波神社」(いてはじんじゃ)のことであるとされる。
古来より修験道(羽黒派修験など)の道場として崇敬された。
三山は神仏習合、八宗兼学の山とされた。江戸時代には、三山にそれぞれ別当寺が建てられ、それぞれが仏教の寺院と一体のものとなった。
すなわち、羽黒山出羽神社は、伊氐波神の本地仏を正観世音菩薩とし、一山を寂光寺と称して天台宗の寺院(輪王寺の末寺)であった。
羽黒山全山は、江戸期には山の至る所に寺院や宿坊が存在した。
羽黒山に羽黒山五重塔が残され、鳥居前に手向宿坊街が残っているのはその名残である。
月山神社は、本地仏を阿弥陀如来とし、岩根沢(現・西川町)に天台宗日月寺という別当寺が建てられた。
湯殿山神社は本地仏を大日如来とし、別当寺として本道寺(現・口之宮湯殿山神社)、大日坊、注連寺、大日寺(現大日寺跡湯殿山神社)という真言宗の4寺が建立され、うち本道寺が正別当とされた。

江戸時代には「東国三十三ヶ国総鎮守」とされ、熊野三山(西国二十四ヶ国総鎮守)・英彦山(九州九ヶ国総鎮守)と共に「日本三大修験山」と称せられた。
東北地方、関東地方の広い範囲からの尊敬を集め、多くの信徒が三山詣でを行った。
出羽三山参詣は、「霞場(かすみば)」と呼ばれる講を結成して行われた。
出羽三山の参道は、通称「七方八口」と言われた。八口とは、荒沢口(羽黒口)、七五三掛(しめかけ)口(注連寺口)、大網口、岩根沢口、肘折口、大井沢口、本道寺口、川代口であり、そのうち、七五三掛口と大網口は同じ大網にあったことから、七方となった。
それぞれの口には「女人結界」が設けられ、出羽三山の山域は女人禁制であった。
別当寺は、女人参詣所という役割もあった。
なお、八口のうち川代口は江戸時代初期に廃され、肘折口には羽黒山・月山派の末坊、阿吽(あうん)院が置かれた。

出羽三山の諸寺は山域の通行手形の発行も行い、出羽三山の参道は、村山地方と庄内地方とを結ぶ物流のルートであった。
庄内藩は大網に「大網御番所」を置いて、これを管理した。
同じく、村山地方には大岫峠の手前に山形藩の「志津口留番所」が置かれた(江戸初期のみ。のち村山側も庄内藩知行地)。
志津には、湯殿山別当であった本道寺と大日寺がそれぞれ「賄い小屋」を建て、参拝者の便を図った。
明治の神仏分離で神社となった。
1873年(明治6年)に国家神道推進の急進派であった西川須賀雄が宮司として着任し、その際に廃仏毀釈が行われ、特に羽黒山において、伽藍・文物が徹底的に破却された。
その結果、別当寺が廃され神社となって3社を1つの法人が管理することとなり、出羽神社に社務所が置かれた。
旧社格は月山神社が官幣大社、出羽神社・湯殿山神社が国幣小社である。
戦後、神社本庁の別表神社となった。

○羽黒山
寂光寺:廃寺となり、山内の18坊内15坊が廃棄となり取り壊される。残った正善院、荒沢寺、金剛樹院が寺院として羽黒山から独立し、現存する。
出羽神社

○月山
日月寺:神仏分離により廃寺となり、神社となった。現在の岩根沢三山神社である。岩根沢の出羽三山神社は比較的早く廃寺となったため、廃仏毀釈を免れ、神社ではあるが庫裏の構造がそのまま残されており、修験道を知る貴重な史跡になっている。神社前に宿坊が立ち並んでおり、境内や周辺部には、日月寺に安置していたという地蔵菩薩を祀る地蔵尊や、南無阿弥陀仏石碑等が残されている。また、行者の精進料理である「六浄豆腐」は、岩根沢にしかない秘伝の豆腐である。
月山神社

○湯殿山
本道寺、大日坊、注連寺、大日寺:このうち、大日坊と注連寺は真言宗寺院として湯殿山から独立し、現存する。残る2寺は廃寺となり、神社となった。本道寺は西川町本道寺の口之宮湯殿山神社として、大日寺は西川町大井沢の大日寺跡湯殿山神社として現存する。本道寺の寺宝は、寺院として分離した大日坊・注連寺を初めとする諸寺院に引き取られたが、引き取った寺院から散逸してしまった品が多い。このうち、空海坐像は栃木県内の古美術商の手に渡っていたが、1989年(平成元年)に口之宮湯殿山神社が買い取った。仁王像は、1905年(明治38年)に仙台駅前にある仙台ホテルが建て替えした際、同像を所有していた弥勒院が同ホテルに売却したが、2005年(平成17年)に仙台ホテルの所有者・運営者が替わって全面改装することになったため、同年11月15日に口之宮湯殿山神社に寄贈された。いずれも、現在は口之宮湯殿山神社の拝殿に安置されている。大日寺の伽藍は、明治期に火災により消失し、現在は山門のみが、当時の姿を偲ぶものとして残されている。
湯殿山神社




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