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宮城県 食文化 

あざら
あざらは、バラメヌケ(メヌケ)のあらと白菜の古漬けを、酒粕と共にトロ火で煮込んだもの。宮城県の気仙沼地方の料理。
元々は旧正月に各家庭の残り物を煮たところから始まったと言われる。 また、春を迎えて白菜の処理に困った家庭で考案されたという説もある。
現在、一般家庭ではほとんど作られていない。小料理屋で出される程度である。

仙台牛タン
宮城県仙台市の牛タン料理は、「仙台牛タン」の名称で名物として知られている。庶民の料理から始まっているため、日本で最も格付け基準が高い超高級ブランド牛肉の仙台牛が牛タン定食や牛タン弁当に用いられることはほとんどない。ただし、仙台牛を用いた高級メニューが一部に存在する。


九重(銘菓)
九重(ここのえ)は、仙台の菓子屋、九重本舗玉澤が製造販売する和菓子の飲料である。1901年から20世紀中葉までは仙台土産として代表的なもので、現在も銘菓として知られている。
九重は細かなあられ球の粒々に柚子、ぶどう、緑茶の風味をつけた糖衣を絡めたものである。袋から粒々を取り出し器に入れた後にお湯または水を注ぐと、糖衣が溶けて水に美しい色をつけ、あられが浮かびあがってくる。粉末ジュースのようなユニークな和菓子である。

笹かまぼこ
伊達家の家紋「竹に雀」
その形状から、元は「木の葉かまぼこ」「手のひらかまぼこ」「平かまぼこ」「ベロかまぼこ」などと呼ばれていた。仙台市一番町に1935年(昭和10年)創業した阿部蒲鉾において、旧仙台藩主伊達家の家紋「竹に雀」の笹に因んで「笹かまぼこ」と呼ぶようになってから、旧仙台藩地域で次第に名称が統一されていったという。現在では「笹かま」との省略形でも通用する。
支店経済都市である仙台市の仙台駅で土産品としての地位を確立したため、全国的には「仙台市の特産品」との認識もあるが、名称の由来からも「旧仙台藩の特産品」であり(→仙台参照)、特定第3種漁港(全国的重要漁港)を擁する気仙沼市・石巻市・塩竈市のほか、宮城県内の太平洋沿岸の港町でも生産は多い。なお、阿部蒲鉾との違いを出すため、現在も「手のひらかまぼこ」の商品名を用いる企業もある。
現在の製法は、笹形の木枠あるいは鉄製枠にすり身を入れておおよそを成型し、贈答品などではその後手で細かな成形をする工程を入れて、竹串に刺して焼いて作られる。


政岡豆
政岡豆(まさおかまめ)は、20世紀初めから半ばまで宮城県仙台市の銘菓として知られた和菓子である。煎り豆に砂糖をかけたもので、白・緑・こげ茶の三色があった。現在は作られていない。
仙台で菓子店を営んでいた深川佐蔵が、1908年(明治41年)に創始した。政岡豆の名は、伊達騒動を脚色した歌舞伎「伽羅先代萩」の登場人物政岡にあやかったものである。仙台の郷土色を強調したネーミングはそれまでの当地の菓子業界にないもので、美しい包装や宣伝によって急速に仙台銘菓としての地位を確立した。以後、九重、志ほがまとともに仙台銘菓の代表格となった。
1941年(昭和16年)に菓子業界が統合されたとき、政岡菓子本舗も廃業となり、佐蔵は戦時中の1943年(昭和18年)12月9日に亡くなった。戦後、妻のキミが1949年(昭和24年)に復興させたが、やがて店をたたみ、松屋本店が政岡豆の製造を譲り受けた。
政岡豆は、1962年(昭和37年)の全国お国自慢みやげ品展において全国観光土産品連盟会長賞を受賞した。


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古川祭 

古川祭(ふるかわまつり)は毎年4月19日、20日に岐阜県飛騨市古川町(旧・吉城郡古川町)で開催される気多若宮神社の例祭。
「神輿行列」と祭りの開始を告げるために打ち鳴らしたといわれる「起し太鼓」と絢爛豪華な9台の「屋台行列」からなる。
その起源は定かではないが、文献に最初に登場するのは屋台が1776年(安永5年)、起し太鼓が1831年(天保2年)である。
1980年(昭和55年)に古川祭の起し太鼓・屋台行事が国の重要無形民俗文化財に指定された。
日本三大裸祭りの一つに数えられる。
古川祭は古くは旧暦の8月6日(太陽暦の9月上、中旬頃)に開催されていたが、1886年8月に疫病が流行し例祭ができなくなったことから11月に変更された。
また1887年(明治20年)より春祭へと変更し4月16日、17日としたが、1889年(明治22年)より現在の日程となった。

○起し太鼓
起し太鼓と付け太鼓
文献の上では、1831年(天保2年)に初めて登場する。通常例祭が行われる際には祭の開始を告げるために氏子地内を太鼓を鳴らして回る風習は各地に見られるが(朝太鼓・目覚まし太鼓・一番太鼓)、この太鼓行事そのものが独立した行事となったことが特徴的である。4月20日の本楽祭の開始を告げるために、19日の深夜から太鼓を鳴らして氏子地内を巡ったことが始まりである。太鼓を乗せた櫓を「起し太鼓主事」と呼ばれる当番組が担ぐ。その太鼓の上の両側に男がまたがり、その両側より交互に太鼓を鳴らす。この太鼓をめがけて各台組の付け太鼓(現在は12本存在する)と呼ばれる小さな太鼓が突入する。この付け太鼓は幕末頃より加わったものといわれ、元来この地域の人々は「古川ヤンチャ」といわれる激しい気性が有名であり、これによって起し太鼓も非常に荒々しいものとなった。そのため幾度となく「付け太鼓禁止」が出されたが、1901年(明治34年)に解禁になり現在に至る。
明治時代の起し太鼓では櫓に鉤を引っ掛けて荒城川に引きずり落としたことがあるようである。
1884年(明治17年)の例祭では付け太鼓禁止に不満を持つ者たちが、「助太鼓」の名目で強行参加した。
1906年(明治39年)台組同士のケンカに端を発し警察分署への投石が始まり、窓ガラス49枚を割る。
1929年(昭和4年)日頃の警察の取締りに対する不満から、櫓ごと警察署に突入及び投石が行われた。

○屋台
御旅所前に整列する屋台
古川の屋台は1782年(天明2年)当地に来遊した近江の俳人、林篁の記した「飛騨美屋計」の一節で、9台の「屋台」が曳行した様子を知ることができ、当時すでに屋台文化が花開いていたものと推測されるが、各屋台組に残る記録・伝承からはその検証は難しい。屋台の形式や記録より近隣の高山祭の屋台の影響を受けたことは間違いなく、高山の中古屋台を譲り受けた記録もみられる。江戸時代には中段から舞台を出して、子供の歌舞伎・踊り、又はカラクリ人形を操るなど、全屋台に出し物があった。現在は白虎台の子供歌舞伎、青龍台・麒麟台のからくり人形が残る。現存する屋台9台は、岐阜県重要有形文化財に指定されている。

○神楽台(向町組)
1840年(天保11年)二之町中組より屋台を譲り受けたのが始まりである。これを黄鶴台と名づけ、その後朱雀台と改名したが、間もなく廃台とした。1883年(明治6年)高山一本杉白山神社より神楽台を譲受け神楽台組を創設、神楽囃子、獅子舞と共に奉仕するようになる。1889年(明治22年)屋台の破損甚だしく、高山の工匠、村山英縄、古川の住人、西野彦次郎、同彫師蜂屋理八等の手により改修する。1925年(大正14年)より解体修理し現在に至る。この屋台は大きな御所車2輪と後部に内輪との3輪である。上段中央に枠をたて金色大太鼓を吊る。枠上に二羽の大鳳凰後面中段より上段にかけて神旗二本を立てる。烏帽子、直垂姿の5人衆が神楽囃子を奏し、獅子舞を行うのはこの屋台だけである。4月19日の午前に気多若宮神社より御分霊を賜る。また屋台主事を担当せず、屋台曳揃え時には常に先頭を行く。

○三番叟(一之町上組)
創建年代不詳(1754年(宝暦3年)8月の説あり)であるが、1894年(明治27年)以後になると老朽化から曳行中止し、1904年(明治37年)8月の古川大火のとき、大部分を消失した。現存するのは、猩々緋大幕と女三番叟踊りのからくり人形だけである。人形の製作年代・作者とも不明であるが、13本の綱を5人で操作するこの人形踊りの複雑巧妙なことは当町一番である。現在は屋台の所有がないため、例祭においては台名旗(屋台の名称を記した旗)のみ曳行に参加する。また当台組は神楽台に続き2番目に曳揃えられることになっており屋台主事は行わない。

○鳳凰台(一之町中組)
初代の屋台は文化年間(1804年~1817年)にあったと伝えられているが、1891年(明治24年)に廃台し、現在のものは1917年(大正6年)に竣工したものである。この屋台はやや小ぶりであるが、金具や飾りがきらびやかであり、その名の通り屋根には大鳳凰を飾る。見送りは長谷川玉純の「鳳凰の絵」上部を二匹の自彫飛竜がくわえている。

○麒麟台(一之町下組)
一番初めの屋台は文久年間(1861年~1863年)につくられたが、1865年(慶応元年)2月25日の大火により焼失した。1881年(明治14年)に再びつくられたが、1924年(大正13年)の祭りを最後に廃棄した。現在の屋台は3代目にあたるが、設計製作は名工上谷彦九郎が担当し、1933年(昭和8年)に完成したものである。1978年(昭和53年)より古い屋台にあったからくり人形を復活させた。見送りは前田青邨の「風神雷神の図」、替見送りは玉舎春輝の「日本武尊東征図」である。

○三光台(二之町上組)
創建年代は不明であるが、古くは竜門台と称し、のち三光台と改めた。三光とは日・月・星の意味である。現在の屋台の設計は、当町の加藤理八が設計し飛騨の名工石田春皐によって、1862年(文久2年)に完成したものである。その後、度々の改修により精巧華麗なものとなった。 見送りは幸野楳嶺の「素盞男命八股大蛇退治の図」がある。

○金亀台(二之町中組)
創建は安永年間(1772年~1780年)<貞享年間(1684年~1687年)の説あり>で、1840年(天保11年)に向町組に譲る。現在のものは1841年(天保12年)6月に竣工したもので、1902年(明治35年)と1926年(大正15年)に修理した。見送りは「双龍図」といい古代つづれ織りで雲に双竜の織出し、下方は波に虎で本金を織り込んでいる。天保年間(1830年~1843年)に購入したもので唐渡品という。四方ベリはテレフチンという生地。裏は印度更紗でできている。替見送りは塩瀬生地で鈴木松年の「亀上浦島の図」である。

○龍笛台(二之町下組)
初代の屋台は安政年間(1854年~1859年)に作られたものである。現在の屋台は1884年(明治17年)に着手したもので、1886年(明治19年)に竣工したもので古川祭の屋台で一番大きな屋台である。上段天井には竜が描かれ、見送りの「雲竜の図」とともに、京都の垣内雲麟の作品である。体をくねらせ、両側から見送りを抱えるようにした昇り竜、降り竜の彫刻は名作である。

○清曜台(三之町上組)
1818年(文政元年)の創建で三之町全体の所有で、扇子台と称していたが抽選により下組と分離して三之町上組の所有となり、台名も清曜台と改めた。1893年(明治26年)祭礼当日曳行中に転倒し大破した。現在の屋台は1933年(昭和8年)から8年間をかけて、大工棟梁、上谷彦九郎によって新築をし、1941年(昭和16年)4月に竣工した。清曜の名にふさわしく清楚な姿を特徴としている。見送りは元公爵近衛文麿の「八紘一宇」である。替見送りは今尾景祥の「海浜老松の図」である。

○白虎台(三之町下組)
以前は三之町全体で扇子台を所有していたが、三之町上組との抽選で扇子台を失ったことから1842年(天保13年)5月に完成した。これは古い形式を維持したもので下段が高く、彫刻や金具や装身具が少ないものであった。屋台の老朽化に伴い1943年(昭和18年)に曳行を中止した。1981年(昭和56年)~1984年(昭和59年)に大改修を行い現在に至る。当時の古い形式を現在にとどめる。また見送りをもたず、創建当時に演じられていたという子供歌舞伎を復活させ「橋弁慶」を演じる。下段の猩々緋幕は南蛮渡来のものであり、外に類を見ない貴重なものである。また屋根に千木(ちぎ)ではなく御幣(ごへい)をつけているもの非常に特徴的な屋台である。上段に源義経の武者人形をのせる。台紋は源義経を尊崇していたことから源氏の家紋である笹竜胆(ささりんどう)である。

○青龍台(殿町組)
初代の屋台は創設年代は不明であるが、1817年(文化14年)以前に存在した記録が残る。その後、高山の山王氏子の黄鶴台を天保年間(1830年~1843年)に譲りうけ、1859年(安政6年)に玄翁台と改め、1861年(文久元年)に修築して、青龍台と名づけた。1926年(昭和元年)、1940年(昭和15年)に大改築して現在に至る。金森可重が増島城を築き、そのお膝元(殿町の名もこれに由来する)であったことから、台紋は金森氏の家紋であった梅鉢紋を掲げる。この屋台の車輪は外御所車であることが特徴である。(ちなみに高山春祭りにおける青龍台も高山城のお膝元であった青龍台が同様に梅鉢紋を掲げる)。からくり人形は福禄寿と童子の人形を操っている。見送りは、堂本印象の「昇天龍」である。

古川祭


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伊達政宗 

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名。
陸奥仙台藩の初代藩主。
伊達氏第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。
幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。

○幼年期
永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城[要出典]で生まれた。
幼名は梵天丸。
天正5年(1577年)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。
諱の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するべく藤次郎政宗と呼ぶことも多い。
伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきたが、政宗の元服に際しては、当時織田信長によって追放されていた足利義昭からの一字拝領を求めなかった。
天正7年(1579年)には仙道の戦国大名であった三春城主田村清顕の娘愛姫を正室とする。
天正9年(1581年)4月、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾る。

○家督相続から摺上原の戦いまで
天正12年(1584年)10月に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。
政宗は若年を理由に辞退を申し出たが、一門・重臣の勧めを受けて家督を譲り受けた。
小浜城主・大内定綱は二本松城主・二本松義継と手を組み、田村氏の支配から脱却しようとした。
天正13年(1585年)、政宗は大内領小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめの為として撫で斬りを行い、城中の者を皆殺しにしている。
大内定綱の没落を間近で見た義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより5ヶ村のみを二本松領として安堵されることになった。
ところが輝宗は、所領安堵の件などの礼に来ていた義継の見送りに出た所を拉致される。
当時鷹狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って義継を追跡し、鉄砲を放って輝宗もろとも一人も残さず殺害した。この事件については、政宗による父殺しの陰謀説や政宗は追いついたが既に輝宗死亡説などがあるが、詳しいことは分かっていない。
その後、初七日法要を済ますと、輝宗の弔い合戦と称して二本松城を包囲したが、11月17日に二本松城救援のため集結した佐竹氏率いる約3万の南奥州諸侯連合軍と安達郡人取橋で激突した。
数に劣る伊達軍はたちまち潰走し、政宗自身も矢玉を浴びるなど危機的状況に陥ったが、殿軍を務めた老臣・鬼庭左月斎の捨て身の防戦によって退却に成功し、翌日の佐竹軍の撤兵により辛うじて窮地を脱した(人取橋の戦い)。
関白・豊臣秀吉は関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。
天正16年(1588年)、北方の大崎氏家中の内紛に介入して兵10,000を侵攻させたが、黒川晴氏の離反と大崎方の頑強な抵抗に遭い敗北。
さらに政宗への反感を強めていた伯父・最上義光が大崎側に立って参戦し、伊達領各地を最上勢に攻め落とされたが、両軍の間に割って入った母・義姫の懇願により和議が成立し窮地を脱した(大崎合戦)。
一方、これに乗じて伊達領南部に蘆名氏・相馬氏が侵攻してきたが防衛し、愛姫の実家・田村氏領の確保に成功した(郡山合戦)。
天正17年(1589年)には会津の蘆名義広を磐梯山麓の摺上原で破った(摺上原の戦い)。
敗れた義広は黒川城を放棄して実家の佐竹家に逃れ、ここに戦国大名としての蘆名氏は滅亡した。
この後、政宗はさらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼした。
この頃になると惣無事令を遵守して奥州への介入に及び腰になっていた佐竹氏側から結城義親・石川昭光・岩城常隆らが次々と伊達方に転じて政宗に服属した。
このとき政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。
これに加え上述の白河氏といった南陸奥の諸豪族や、また今の宮城県や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった。

○小田原合戦と豊臣政権下
この頃、中央では豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承していた。
伊達家にも秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が幾度か届けられており、政宗はこれを黙殺していた。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたという。
秀吉の小田原攻囲(小田原征伐)中である1590年(天正18年)5月には、豊臣政権の五奉行筆頭の浅野長政から小田原参陣を催促され、政宗は5月9日に会津を出立すると米沢・小国を経て同盟国上杉景勝の所領である越後国・信濃国を経由して小田原に至った。
秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は会津領を没収したものの、伊達家の本領72万石(おおむね家督相続時の所領)を安堵した。
このとき遅参の詰問に来た前田利家らに千利休の茶の指導を受けたいと申し出、秀吉らを感嘆させたという。
この行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられる。
政宗が秀吉に服属してほどなく、北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏し、政宗の居城・黒川城へ入城した秀吉は奥州仕置を行った。ここに秀吉の日本統一が達成された。
江戸時代に仙台藩第4代藩主・伊達綱村(政宗の曾孫)が作らせた『伊達治家記録』には、小田原参陣前に兄の最上義光にそそのかされた義姫によって毒殺されそうになり、義姫を成敗する代わりに弟の伊達小次郎を斬殺したため義姫は実家に逃走したと書かれており、これが通説となっていた。
しかし実際には義姫はその後も伊達家にとどまっており、政宗の朝鮮出兵の頃から母子は親しく手紙のやりとりをしている。
義姫が実家の山形城へ突如出奔したのはこの4年後であることが一次史料からすでに明らかになっている。
この「毒殺未遂事件」の正体は、反政宗派一掃のための自作自演説もある。
翌天正19年(1591年)には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が一揆を煽動していたことが露見する。
これは氏郷が「政宗が書いた」とされる一揆勢宛の書状を入手した事に端を発する。
また、京都では政宗から京都に人質として差出した夫人は偽者であるとか、一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟(のぼり)や旗が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届いていた。
喚問された政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城72万石から玉造郡岩手沢城(城名を岩出山城に変えた)へ58万石に減転封された。
このころ、秀吉から羽柴の名字を与えられ、本拠の岩出山城が大崎氏旧領であったことから、政宗は「羽柴大崎侍従」と称した。
文禄2年(1593年)秀吉の文禄の役に従軍。
従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において巷間の噂となった。
3000人もしくは1500人の軍勢であったとの記録がある。
他の軍勢が通過する際、静かに見守っていた京都の住民も伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたという。
これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった、と伝えられる。
朝鮮半島では明との和平交渉中の日本軍による朝鮮南部沿岸の築城に際して、普請を免除されていたにも関わらず秀吉からの兵糧の支給を断って積極的に参加するなどして活躍した。
ちなみに政宗は、慶長の役には参加していない。
文禄2年以降浅野長政が取次として伊達政宗と豊臣政権のパイプとなっていたが、文禄5年8月14付けの書状で政宗は長政の態度に我慢がならずに絶縁状を送りつけて絶交を宣言した。
秀吉に早くから服属して五大老に選ばれた大名たちとは異なり、政宗は北条氏と同盟して秀吉と対立したため、五大老には選ばれなかった。
文禄4年(1595年)、秀吉から謀反の疑いをかけられた関白・豊臣秀次が切腹した。
秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となり、この時母方の従姉妹に当たる最上義光の娘・駒姫は、秀次の側室になる為に上京したばかりであったが、秀次の妻子らと共に処刑されてしまう。
政宗も秀吉から謀反への関与を疑われるも、最終的には無関係であるとされ連座の難を逃れた。
秀吉の死後、政宗と五大老・徳川家康は天下人であった秀吉の遺言を破り、慶長4年(1599年)、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させた。

○関ヶ原の戦いと最上陣
豊臣秀吉死後の慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐を行うと、これに従い7月25日には登坂勝乃が守る白石城を奪還した。
家康が畿内を離れた隙をついて五奉行の石田三成らが毛利輝元を総大将として家康に対して挙兵したため、小山まで北上していた家康は西へ向かうが、この翌月、家康は政宗に対して岩出山転封時に没収されこの時点では上杉領となっていた旧領6郡49万石の領土の自力回復を許す旨の書状(「百万石のお墨付き」仙台市博物館・蔵)を送っている。
これは政宗が南部利直領の和賀・稗貫・閉伊への侵攻許可を得るため、南部氏が西軍に通じているとしきりに家康に訴えていたことから、お墨付きを与えることで政宗が対上杉戦に集中するよう仕向けたものであった。
同年9月、関ヶ原の戦いが勃発すると、西軍の上杉家重臣直江兼続率いる軍が東軍の最上氏の居城山形城を攻撃する(長谷堂城の戦い)。
東軍に属した政宗は、最上氏からの救援要請を受けて叔父・伊達政景率いる3,000の兵を派遣し、9月25日には茂庭綱元が上杉領の刈田郡湯原城を攻略した。
関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わり、直江兼続もまた最上義光に敗れて米沢に逃げ帰ると、政宗は自ら兵を率いて伊達・信夫郡奪還のため国見峠を越えて南進し、10月6日に福島城主本庄繁長の軍勢と衝突する。
宮代表の野戦では威力偵察に出た大宝寺義勝(繁長の子)率いる上杉軍を破ったものの、つづく福島城包囲戦では繁長の堅い守りに阻まれて攻城に失敗、さらに上杉軍の別働隊に補給線を断たれたため、翌日には北目城へと撤退した(後世の軍記物に見えるいわゆる松川の戦いのモデル)。
この後、翌年春頃まで幾度か福島城攻略のために出兵したが、結局は緒戦の失敗を取り戻せず、旧領6郡のうち奪還出来たのは陸奥国刈田郡2万石のみであった。
加えて、政宗が南部領内で発生した和賀忠親による一揆を煽動し、白石宗直らに命じて忠親を支援するため南部領に4,000の兵を侵攻させていたことが発覚した(岩崎一揆)。
この一件は最終的には不問に付されたものの、政宗が希望した恩賞の追加はことごとく却下され、領地は60万石となった(後に近江国と常陸国に小領土の飛び地2万石の加増で62万石となる)。

○仙台開府と慶長遣欧使節
伊達政宗からローマ教皇に宛てられた書簡
慶長6年(1601年)には仙台城、仙台城下町の建設を始め、居城を移す。ここに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。
石高62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位である。
徳川幕府からは松平の名字を与えられ「松平陸奥守」を称した。
仙台城は山城で天然の地形を利用した防御であるものの、仙台の城下町は全面的な開発であるため、のべ100万人を動員した大工事となった。
藩内の統治には48ヶ所の館を置き家臣を配置した。
政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図し、慶長18年(1613年)、仙台領内において、エスパーニャ国王・フェリペ3世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造した。
政宗は家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを外交使節に任命し、家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。

○大坂の役
慶長19年(1614年)の大坂の役(冬の陣)では大和口方面軍として布陣した。
和議成立後、伊達軍は外堀埋め立て工事の任にあたる。
その年の12月、将軍秀忠より伊予宇和郡に領地を賜る。
翌年、慶長20年(1615年)の大坂の役(夏の陣)道明寺の戦いでは後藤基次らと戦った。
基次は伊達家家中・片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したといわれる。
道明寺口の要衝小松山に布陣をする後藤隊を壊滅させた大和方面軍は誉田村に兵を進めるが、ここで伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受けて後退を余儀なくされた。
これに対し先鋒大将の水野勝成は政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請するが、政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを理由にこれを悉く拒否し、最後は政宗自ら勝成の陣に赴き要請を断った。
このため信繁は悠々と大坂城に引き返し「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」(「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人として居ない」)と嘲笑したという。
なお、誉田村での戦闘中に政宗勢は水野家家中3人を味方討ちにし、水野家の馬を奪っているが、勝成は政宗の軍勢を待ち伏せにし兵を斬り殺して馬を奪い返した。
しかし、これに政宗が異議を唱えることはなかった。
一説によれば、翌5月7日の天王寺の戦いで政宗は船場口に進軍し明石全登隊と交戦していた水野勝成勢の神保相茂隊約300人を味方討ちにしたという(6日の道明寺の戦いで発生したとする説もある)。
神保隊は全滅し、相茂自身も討ち死にして遺臣が水野勝成らを通じて政宗に抗議するが、政宗は開き直り「神保隊が明石隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分した。伊達の軍法には敵味方の区別はない」と主張したとある(『薩藩旧記』巻六)。
この風聞は直後から様々な興味と憶測を生み、講談本(『難波戦記』)では後藤隊休息中の神保隊に有無を言わさずに銃撃を加えたとする説や、手柄を妬んでの味方討ちとする説も書かれている。
ただし、政宗がこの事件について咎めを受けた記録は無く、幕府の記録(寛政重修諸家譜)にも「(神保相茂は)奮戦して死す」とのみ記述されており、幕府が政宗に配慮し抗議を黙殺した、あるいは水野家家中への味方討ちに尾ひれが付いた伝聞が広まった可能性などが考えられる。(詳細は神保相茂の項を参照)
戦後の論功行賞で伊予国の内で10万石が政宗の庶長子である伊達秀宗に与えられた(宇和島藩)。

○晩年
世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備した。
北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。
この結果、仙台藩は表高62万石に対し、内高74万5千石相当(寛永惣検地)の農業生産高を確保した。
文化的には上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、国宝の大崎八幡宮、瑞巌寺、また鹽竈神社、陸奥国分寺薬師堂などの建造物を残した。
さらに近江在住の技師・川村孫兵衛を招き、北上川の河口に石巻港を設けた。
これにより北上川流域水運を通じ石巻から海路江戸へ米を移出する体制が整う。
寛永9年(1632年)より仙台米が江戸に輸出され、最盛期には「今江戸三分一は奥州米なり」と『煙霞綺談』に記述されほどになる。
2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕えた。寛永12年に家光が参勤交代制を発布し、「今後は諸大名を家臣として遇す」と述べると、政宗はいち早く進み出て「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たため、誰も反対できなくなった。
家光は下城する政宗に護身用に10挺の火縄銃を与えた。
健康に気を使う政宗だったが、寛永11年(1634年)頃から食事不振や嚥下に難を抱えるといった体調不良を訴え始めていた。
寛永13年(1636年)4月18日、母義姫を弔う保春院の落慶式を終えた後、城下を散策した政宗は経ヶ峰に杖を立て、「死後はここに埋葬せよ」と言った。
そこが後の瑞鳳殿である。
2日後の20日に参勤交代に出発した政宗は急に病状を悪化させ、宿泊した郡山では嚥下困難に嘔吐が伴い何も食べられなくなっていた。
28日に江戸に入った頃には絶食状態が続いた上、腹に腫れが生じていた。
病をおして参府した政宗に家光は、5月21日に伊達家上屋敷に赴き政宗を見舞った。
政宗は行水して身を整え、家光を迎えた。
しかしお目見え後に奥へ戻る時には杖を頼りに何度も休みながら進まざるをえなかった。
5月24日卯の刻(午前6時)死去。享年70(満68歳没)。
死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。
「伊達男」の名にふさわしく、臨終の際、妻子にも死に顔を見せない心意気であったという。
5月26日には嫡男・伊達忠宗への遺領相続が許された。
遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めた上で駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列により6月3日に仙台へ戻った。
殉死者は家臣15名、陪臣5名。
「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。
将軍家は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発した。
これは御三家以外で異例のことであった。
辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」。
法名から、没後は貞山公と尊称された。

伊達政宗


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秋保温泉 

秋保温泉(あきうおんせん)は、宮城県仙台市太白区秋保町湯元(旧国陸奥国、明治以降は陸前国)にある温泉。仙台都心からも近いため、宿泊のみならず、日帰り入浴にも利用されている。
同じ宮城県の鳴子温泉、福島県の飯坂温泉とともに奥州三名湯に数えられた。

仙台都心から見て西南西、旧秋保町内の東西に長い秋保盆地にあり、名取川が形成した河岸段丘の段丘面上に温泉街が広がる。
温泉街付近では、段丘崖と名取川により磊々峡と呼ばれる渓谷が続く。
秋保温泉旅館組合に加盟する温泉宿泊施設は名取川右岸にほとんどがあるが、観光案内所の機能も持つ「秋保・里センター」あるいは秋保温泉入口交差点をはさんで西側と東側とに分かれて集積しており、西側のさらに名取川上流の神ヶ根温泉まで計16館(客室総数1,242室、総収容人員6,172人/日)がある。
奥羽山脈・二口峠を越えて仙台と山形を最短でつなぐ二口街道が当地を貫いており、「秋保・里センター」の西側地区には平安時代に起源を有する宿のほか、江戸時代の寛永年間あるいは元禄年間に創業した老舗旅館が建ち並んでいる。

温泉街は仙台都心から車で30分程度と近く、数百台を収容できる駐車場、数百人を収容できるコンベンションホール、そして、高級ホテルのスイートルームに匹敵する部屋(離れ)を有する施設が複数存在し、仙台都市圏で最高の価格とサービスを提供しているため、仙台におけるコンベンション地区として機能し、賓客接待にも用いられている。
同様に仙台郊外には松島などにも高級ホテル・旅館が存在することから、仙台都心にいわゆる高級ホテルが立地できない要因ともなってきた。

2008年(平成20年)の仙台・宮城デスティネーションキャンペーンに合わせて松島に松島温泉が開湯し、仙台都心では2010年(平成22年)に仙台トラストタワーに外資系高級ホテルのウェスティンホテル仙台が開業したため、競争激化から秋保温泉も変革を余儀なくされているが、それでも、コンベンション機能があるホテルまたは旅館(仙台観光コンベンション協会認定)の宿泊機能で比較すれば、秋保温泉は仙台圏で最大の収容能力を有し、スイートルームも仙台圏全87室のうち41室を占めるなど、仙台圏における優位性を維持している。

開湯時期は不明だが、古墳時代にはすでに存在したとする説も存在する。
秋保温泉が歴史に登場するのは、第29代欽明天皇の代である。
在位中(531年〜539年)に小瘡(皮膚病)に感染し、八方手を尽くして治療を行ったものの一向に治らなかったが、秋保温泉の湯を搬送させ沐浴したところ数日で全快したとされ、天皇はその喜びを歌に詠んだ。

“覚束な雲の上まで見てしかな鳥のみゆけば跡はかもなし”

以後、秋保温泉は皇室の御料温泉の一つとして位置づけられ「御湯」の称号を賜り、別所温泉(信濃御湯)、野沢温泉(犬養御湯)(あるいはいわき湯本温泉(三函御湯))と共に「日本三御湯」と称せられるようになった。
「名取の御湯」は、「拾遺集」「大和物語」などにも歌われている。
御湯であるが、日本三古湯(有馬・道後・白浜)ではない。

平安時代から戦国時代にかけて、秋保温泉の「湯守役」を勤めていたのが佐藤家である。
伊達政宗の仙台入府後、秋保温泉に藩主の御殿湯が整備されたが、この管理も佐藤家に任せられた(現在のホテル佐勘の祖)。

江戸時代初期までは、秋保温泉の源泉は一つで入浴場も一箇所のみであった。
この入浴場の周りに宿泊所が設けられていた。
当初、この宿泊所も佐藤家だけが管理していたが、1625年(寛永2年)に岩沼屋が、また元禄年間には水戸屋が、佐藤家と縁を結ぶ形で旅籠を開設する。
武家はもちろん庶民の利用も活発となり、広く親しまれる湯治場の一つとして賑わうようになった。

大正時代に入ると秋保温泉と長町との間に、秋保石の採掘運搬を目的とした馬車軌道が開通した。
しかし、所要時間は約2時間20分であり、徒歩での所要時間と大差なかった。
その後、秋保石材軌道、秋保電気鉄道へと発展し、所要時間は約1時間に短縮された。
さらに、長町駅では国鉄東北本線や仙台市電と接続し、戦後にかけ湯治客の輸送に大きく寄与した(秋保電気鉄道は1961年に廃止されている)。

戦後、各旅館とも近代的な建築に建て替えが進んでいたが、1980年代に入ると高層の大型観光ホテルが次々建てられた。
すると、人口約5千人の秋保町の財政では高層ホテルに対応するポンプ車やはしご車などの消防車を配備することが困難となり、町は1985年(昭和60年)に仙台市と消防応援協定を締結した。
さらに、従来型の簡易水道や下水処理を大量の宿泊客に対応するための上水道と下水道へ整備する必要にも迫られ、また、1981年(昭和56年)4月15日の笹谷トンネル開通で仙台~山形間の最短路になった国道286号が通る町中心部近くにおいて、赤石橋周辺がボトルネックとなって周辺道路が週末に大渋滞する状況も解決しなくてはならなくなった。
しかし、町単独の財政ではこれらのインフラ整備は困難と考えられ、1988年(昭和63年)に仙台市へ編入合併、翌1989年(平成元年)に政令指定都市化という道を町は選んだ。

仙台市との合併後、渋滞の原因の1つである国道286号と宮城県道31号仙台村田線との接続部において、東北自動車道・仙台南ICから温泉街入口までの国道286号に片側2車線の生出バイパスが整備され、その先の国道286号でもボトルネックの赤石橋を回避する赤石バイパスが新設された(1990年代に整備が進んだ山形自動車道も渋滞の解消には役立った)。
また、国道48号からは林道のみのアクセスだったが、仙台西道路・愛子バイパス・県道秋保温泉愛子線と続く仙台都心からの新たな最短経路が建設され、更に国道457号もできた。
これら道路の整備により、仙台都心から車で約20分、最寄インターチェンジから約10分という利便性を得た。
また、釜房ダムなどを水源とする上水道が整備され、旧秋保町全体の下水道普及率も政令市移行時の29.6%から88.6%になり、湯元地区には仙台市消防局太白消防署秋保出張所も設置された。

バブル景気までは、各ホテル・旅館とも団体旅行や宿泊を伴う大型忘年会などで賑わい、宴会部門を主な収入の柱にした経営をしていた。
また、同時期に仙台市に編入合併した旧宮城町内の作並温泉(片側1車線の国道48号あるいは全線単線の仙山線・作並駅でアクセス)と比べて利便性が高くなり、投資や観光客も集中した。
しかし、バブル崩壊後は旅行の少人数化で宴会を伴わない客層に変化し、団体客が減少して宴会部門の収益が激減した。
そのため、倒産したり、買収される旅館も出るなど、各ホテル・旅館とも収益構造の変化を強いられた。
その中で、域外資本による低価格販売路線を打ち出す宿の登場や、既存の宿の方向性転換による個人客向け高級温泉宿など様々な宿が存在する温泉街へと変化した。

秋保温泉(宮城県)


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松島 

松島(まつしま)とは、宮城県の松島湾内外にある大小260余りの諸島のこと。
または、それら諸島と湾周囲を囲む松島丘陵も含めた修景地区のことである。
日本三景の1つに数えられている。

松島は、仙台平野を南北に分ける松島丘陵の東端が海にまで達し、それが沈水して出来たリアス式海岸がさらに進んだ沈降地形で、溺れ谷に海水が入り込み山頂が島として残った多島海である。
全体として松島湾(広義)を形成し、湾内の水深は10メートル以内である。
これは、この一帯が過去から大きな地震のたびに地盤が少しずつ沈下してできた地形であることを物語っている。
この地域の大部分の地層は第三紀層の凝灰岩、砂岩、礫岩など侵食に非常に脆い岩質で出来ており、特に波に洗われる部分は容易に侵食される。
そのため多くの小島は上部に松などが植生し、海面に近い基部は白から灰白色の岩肌を見せている。
さらに、海水面近くが波に洗われて鋭角に抉られており、ややキノコに似た形になっているものもある。
また、侵食による奇岩や日本三大渓に数えられる嵯峨渓のような海蝕崖も見られる。
このように侵食、風化作用を受けやすい地層の上に松島は成り立っているため、長い間に風景も少しずつ変化してきたと考えられ、過去の文献に記載されたものと現在のものとの間には微妙な違いがあると考えられている。
五大堂が設置されている島も海水面近くが侵食されており、将来が危ぶまれている。
尚、260余りの島すべてに名前がつけられている。2007年、日本の地質百選に選定された。

松島湾(広義)は、宮城県の太平洋沿岸部に大きく広がる仙台湾(広義)を3つの支湾に分けたうちの1つである。すなわち仙台湾(狭義)、松島湾(広義)、石巻湾と並んだうちの真ん中である。
他の2つは砂浜海岸が主であるのに対し、松島湾(広義)は磯を主としている。

松島湾(広義)は更に、北側の松島湾(狭義)と南側の塩竈湾(千賀ノ浦)に区分される。
松島湾(狭義)は暗礁が多く、外来者にとっては航行が困難な海域である。
そのため、江戸時代には伊達政宗によって暗に「軍港」と見なされ、瑞巌寺を始めとした伊達家直轄施設が暗に軍事施設として多数建設された。
松尾芭蕉が、松島を始めとして仙台藩の城や要害、関所などの主要軍事施設を回っていることから、隠密説がある。
現在それらの施設は観光資源となっている。

南側の塩竈湾は、古くは陸奥国府・多賀城(地図)の外港として、江戸時代以降は城下町・仙台(地図)の外港として機能し、第二次大戦後は仙台塩釜港の塩釜港区として機能してきた。
現在は仙台港区に物流の中心が移動したため、塩釜港区は近海マグロを主とする漁港として機能している。
港に近接する山の上には鹽竈神社があるが、この神社は平城京政府、奥州藤原氏、伊達氏など、この地を治めた統治者によって保護されており、信仰と並んで山城としての機能も有していた。

日本三景・松島は、松島湾沿いに仙台側(南側)から「塩竈」「松島」「奥松島」の主に3つの観光地区に分かれる。

松島



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仙台七夕 

仙台七夕(せんだいたなばた)は、旧仙台藩内各地で五節句の1つ「七夕」に因んで毎年行われている年中行事および祭である。
地元では「たなばたさん」とも呼ばれる。宮城県仙台市で開催されている仙台七夕まつりが特に著名。

仙台七夕まつりは例年7月7日の月遅れである8月7日を中日として、8月6日から8日の3日間にわたって行われる。
大規模な飾り付けがされるのは一番町や中央通りなどのアーケード街、仙台駅周辺などであるが、それ以外の商店街組織ごとの飾り付けや店舗や家庭など個別の飾り付けなど市内各地至るところに小から大まで合計3000本と言われる飾り付けがなされ、街中が七夕一色になる。
東北三大祭りの1つに数えられ、例年200万人以上の人が訪れる。

仙台市周辺の自治体各地の商店街などでも同時に大小さまざまな七夕飾りがなされるため、市境を越えて広がりを持つ。
また、国内各地の七夕まつりに影響を与えてきたこともあって首都圏などの企業や駅や空港の七夕飾りを作成する業者も存在しており、その豪華な飾り付けが各地に移出され続けている。

江戸時代初期、仙台藩祖の伊達政宗が婦女に対する文化向上の目的で七夕を奨励したため当地で盛んな年中行事の1つになったともされるが、詳細は不明のままである。
年中行事としての七夕は江戸時代中期頃から全国各地で行われている。
1783年(天明3年)には、天明の大飢饉発生による荒廃した世俗の世直しを目的に藩内で盛大に行われた。
1873年(明治6年)の新暦採用を境にして年々七夕の風習は廃れ始め、第一次世界大戦後の不景気以降はそれに拍車がかかった。
1927年(昭和2年)、この状況を憂えた商店街の有志らによって大規模に七夕飾りが飾られた。
すると、大勢の見物客で商店街は賑わった。
翌1928年(昭和3年)には旧暦開催を新暦日付の月遅れ(8月6日・7日・8日)に開催することとし、東北産業博覧会と関連して「飾りつけコンクール」も行われ以降、華麗な飾りつけが発達するようになった。
このようにして、「七夕」という庶民の風習は「七夕祭り」という昼間の商店街で行われるイベントへ転換した。しかし、第二次世界大戦の戦局の悪化とともに規模は縮小された。
戦後の1946年(昭和21年)、仙台空襲で焼け野原となった街に52本の竹飾りで仙台七夕は復活した。
翌1947年(昭和22年)の昭和天皇巡幸の際、沿道に5000本の竹飾りを並べて大規模な飾りつけの「七夕祭り」が復活した。
1949年(昭和24年)には七夕協賛会が発足した。高度経済成長以降は、「東北三大祭り」の1つに数えられたことで日本各地から団体旅行客が集まる祭りへと変化した。
1970年(昭和45年)からは「動く七夕パレード」(現「星の宵まつり」)と「仙台七夕花火祭」が始まり、夜のイベントが加わった。
1983年(昭和58年)からは「夕涼みコンサート」が始まり、無料の屋外音楽イベントの面も持ち合わせるようになった。

仙台七夕


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仙台城 

仙台城(せんだいじょう)は、現在の宮城県仙台市青葉区(陸奥国宮城郡)の青葉山にある平山城である。
雅称は「青葉城」。「五城楼」との別名もある。
2003年(平成15年)8月27日、国の史跡に指定された。

慶長年間に伊達政宗が築造してから、廃藩置県・廃城令までの約270年に渡り伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁であった。国の史跡に指定されている。
伊達政宗が築城した仙台城は約2万坪で、徳川家康の江戸城に次ぐ大きさを誇り、全国最大級の城であった。

幾度となく、地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、奥羽越列藩同盟盟主として戊辰戦争を経るも、一度も戦火を見ることなく要塞としての機能を終えて、その後は明治初期から大正にかけてその大半が失われた。数少ない遺構であった大手門、脇櫓、巽門は国宝(旧国宝)に指定されていたが、太平洋戦争時の仙台空襲により焼失した。
現在では、宮城県知事公舎正門の建築に転用された寅の門の部材が残るのみである。
青葉山に位置することから、「青葉城」という雅称を持ち、一般的にもその名で呼ばれる事が多い。
これは仙台城ができてから生まれた地名で、山と城のどちらが先に「青葉」の名を得たか不明である。
青葉山は、仙台七崎の一つ「青葉ヶ崎」に由来する。

○江戸時代以前
青葉山には、伊達氏以前から城があり、初めは千体城、後に千代城と称し、鎌倉時代末期から室町時代中期にかけて島津氏が陸奥守として居城し、室町時代末期には国分荘の国人の国分氏が居城したとも伝えられている。

○江戸時代
伊達政宗の叔父でもある城主国分盛重が政宗と対立して出奔すると、千代城は廃城となった。
政宗は、関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て千代に居城を移すことにした。1601年1月28日(慶長5年12月24日)に青葉山に登って縄張りを始め、地名を仙台と改めた。彼が築いた仙台城は、本丸と西の丸からなる山城であり、天守台はあるが天守は持たなかった。これらの点で時代の流行に背を向けたが、結果として仙台城は、ビスカイノをして「日本の最も勝れ、又最も堅固なるものの一つ」と言わしめるほど、同時代に比類ない堅城となった。
しかし、世が泰平となると、山上と麓の往来は不便であったため、伊達忠宗が1637年(寛永14年)に二の丸造営に着手し、翌年完成させた。本丸と同じく広瀬川の内側にあるが、土地は平坦な場所である。伊達家の当主はここに居住し、政務もここで執られた。時期は不明だが、これと前後して大手門脇、青葉山の麓に三の丸が作られた。これ以降、仙台城は平山城となった。
江戸時代を通じて、仙台城は火災や地震により何度か建物や石垣の一部を失い、その都度再建された。戊辰戦争でも仙台が戦場になることはなかったため、仙台城は創建以来一度も攻撃を受けずに要塞としての役目を終えた。

○近代
明治4年(1871年)に東北鎮台が仙台城を本営にして駐屯した。このとき本丸が破壊され、石と木が兵舎建設に流用された。後に東北鎮台は仙台鎮台と改称した。さらに鎮台制が師団制にかわると、第二師団が置かれた。
1882年(明治15年) 火災が発生し大手門、脇櫓、虎ノ門を除くほとんどの建物が焼失した。
1904年(明治37年) 本丸の跡地に招魂社が建てられた。現在の宮城縣護國神社である。
1920年(大正9年) 大手門から本丸への途中にある中門が取り壊され、現知事公館の正門に移築された。
1931年(昭和6年) 大手門と脇櫓(隅櫓)が国宝に指定される。
1935年(昭和10年)5月 政宗没後300年を記念して「伊達政宗騎馬像」が本丸に建立された。
1943年(昭和18年) 政宗騎馬像が金属類回収令により撤去された。全て溶解していたはずだったが、戦後、頭から胸は溶かされずにいたのを発見される。この胸像は現在、三の丸(仙台市博物館)に展示されている。

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月10日未明、アメリカ軍による仙台空襲の際、米軍のB29により投下された焼夷弾により、大手門、脇櫓(隅櫓)(当時国宝)、衛兵所に使用中の二の丸表舞台楽屋などが全て焼失し、護国神社も焼失した。これにより、江戸時代から伝わる建物は三の丸の巽門(たつみもん)のみとなった(この日の戦災で焼失したという説もある)。

○現代
戦後、第二師団の跡地にアメリカ陸軍が進駐し、三の丸巽門が破却されたことにより仙台城跡にあった現存する江戸期の建築遺構はすべて失なわれた。アメリカ軍は1957年(昭和32年)にここを返還した。
1954年(昭和29年) 戦争中に撤去された政宗像はコンクリートによって再建される。これは立像であった。
返還された後の二の丸跡地には、東北大学が入り、東北大学川内キャンパスとなった。川内キャンパス(川内北キャンパス、川内南キャンパス)のうち、南部の文系四学部、付属図書館、付属植物園のある場所が二の丸にあたる。
1950年(昭和25年) 宮城神社(宮城縣護國神社の占領期の名称)は国有地払い下げを受け、本丸一帯を所有した。仙台市は城が神社のものになることを望まず、交渉して土地の一部を管理し、一部を買い上げた。2003年(平成15年)現在、本丸の一部は仙台市のものだが、本丸の一部と西の丸はなお護国神社のものである。城を訪れる人は、表玄関である詰門があった場所に、大きな鳥居と「靖国神社公式参拝を継続させよう」などと書かれた看板を見ることになる。本丸の中心は、護国神社の拝殿と青葉城資料館、食堂などが占める。
1961年(昭和36年) 三の丸跡地に仙台市博物館が開館した。三の丸の堀は、長沼、五色沼として残る。
1962年(昭和37年) 銅像が再建されて騎馬像として建立された。先に建立したコンクリート製の立ち像は岩出山町(現・大崎市)の岩出山城に移設された。
2003年(平成15年)8月27日、国の史跡に指定された。
2005年(平成17年)より、青葉城本丸会館が営業時間を午後10時まで延長し、仙台城本丸から眺める仙台市都心部の夜景を中心とした夜間観光に力を入れ始めた。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(8番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
2008年(平成20年)、仙台・宮城デスティネーションキャンペーンを契機に、土井晩翠銅像前における「荒城の月」自動演奏を一日3回から10回(9:00-18:00まで1時間毎)に増やした。また、仙台城本丸の伊達政宗騎馬像および石垣を日没から午後11時まで通年でライトアップを行うようになった。これに合わせて、本丸にある有料駐車場(昼間普通車400円/時間)を18:00~翌8:00は夜間無料開放とした。
2011年(平成23年)、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で石垣、脇櫓(隅櫓)の一部が崩壊した。

仙台城


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宮城県 

宮城県(みやぎけん)は、日本の県の1つで、東北地方に属する。
東は太平洋に面し、西は奥羽山脈に接する。県庁所在地は仙台市。

県の太平洋沿岸部から奥羽山脈の麓にかけて広大な平野部を持ち、ササニシキ、ひとめぼれなどの稲作中心の農業が行われており、米所として有名である。
また、世界三大漁場の三陸沖漁場に近いため、県内には気仙沼漁港、石巻漁港、塩釜漁港の3つの特定第3種漁港を初めとする142の漁港があり、全国屈指の水揚げ量を誇る。
1県に複数の特定第3種漁港を持つ県は、日本国内において宮城県が唯一である。
カツオ、サンマ、マグロのほか、カキ、ふかひれ、ホヤなどの特産の水産物を持つ。
その他、高級和牛牛肉の仙台牛、イチゴやナシなどの果物、伝統野菜に山菜など、豊富な食材を多く産出している点から、県は「食材王国みやぎ」を宣伝句に掲げている。

歴史的には、現在の宮城県の領域は古墳時代からヤマト王権の影響下にあり、雷神山古墳や陸奥国府と推定される官衙(郡山遺跡)が名取郡に置かれ、後に宮城郡に多賀城(陸奥国府・鎮守府)や陸奥国分寺、陸奥国分尼寺が置かれた。
室町時代になると、奥州管領となった大崎地方の大崎氏を中心に東北地方の支配体制が構築された。
17世紀に伊達政宗が大崎地方の岩出山城から宮城郡に移り、仙台城を築いて城下町を開いた。
戊辰戦争の敗戦で、明治政府直轄領となった石巻県が国の東北地方を統轄する拠点とされたが、間も無く廃藩置県で仙台藩が仙台県となると、仙台に東北地方を統轄する国の出先機関などが置かれるようになった。
仙台県は、約半年後に城下町が所在する宮城郡の名を採って宮城県と改称された。

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